昨年3月、東京から高知県四万十町へ移住してきた小原さん一家。
きっかけは、サラリーマンだった夫・功義さんが、150年ほど前より四万十町で土佐打刃物を作る鍛冶屋「黒鳥」に弟子入りすると決めたことだった。
それから1年。黒鳥で働く功義さんと東京生まれ東京育ちの妻・雅江さん、そして2歳になった娘さん。仕事も暮らしも180度変化した四万十町での新たな生活は?
埼玉県出身の小原功義(かつよし)さんと東京都出身の雅江(まさえ)さん夫妻は 2023 年3月、 それまでの東京での暮らしから離れ、訪れたことのなかった高知県四万十町での暮らしをスタートさせた。
大学卒業後、大手企業へ就職した功義さん。勤め出して6年ほどが経った頃、ふとこの先のことを考えたという。
「その頃働いていた会社では配属先が変わることも頻繁で、その度に仕事も人間関係も一からまた作っていかなければならないことが多かったんです。人前で話をしたり、一日中パソコンに向かってのデスクワークも得意ではなかったので、日々少しずつストレスが溜まっていきました。 ずっとサラリーマンとして働き続けることに対して、幸せな未来がイメージできなかったんです」(功義さん)
そんな時、たまたまYouTube で鍛冶屋で働く男性の姿を見た。昔から抱いていた「職人」という仕事への憧れ。素直にかっこいいと思った。普段から料理をすることが好きだった功義さんは包丁へも興味があり、自然と「鍛冶職人」という仕事に目を向けたという。
一度立ち止まり、自分の将来のことを考え始めたそんな時、大学時代の後輩の結婚式に出席する機会があった。そこで功義さんは 2人の同級生と再会する。
「大学時代、ボート部に所属していて、その後輩の結婚式があったんです。そこで久しぶりに再会した同級生2人。一人は大学卒業後、アメリカで料理の修行をして今は夫婦でキッチンカーを走らせていました。もう一人は大学卒業後に『やっぱり医者になりたい』と思い、2~3年かけて勉強をして、医学部に入っていました。同級生だけど自分よりも3歳ほど年上で、それなのにいまだに学生をしている。そんな2人と再会をして、多分どちらも大変なんだろうけど、表情がすごく生き生きしているように映ったんです」(功義さん)
「自分のやりたいことをしている人の方がきっと幸せなんだ」とその時に感じた功義さんは、ついに鍛冶職人になることを決めた。しかし、自分一人の人生ではない。家族がいる。
功義さんが「鍛冶職人になりたい」という夢を妻・雅江さんに打ち明けたのは、まだ子どもを授かる前のことだった。雅江さんは最初こそ驚いたが、当時の会社で懸命に働いていた様子や新しい道に向けて色々と調べている熱意のある姿を間近で見ていたこともあり、 「思いつきで言っているのではないな」と感じていたそう。
「最初はびっくりしましたけど、彼の本気度も伝わってきて。複雑な思いもありましたけど、とりあえず、検討してみようかって」(雅江さん)
「やっぱり一人ではないので、なるべく妻にも負担のかからない形で移住をしたいなという思いがありました。『鍛冶職人になるために移住をしたい』と言い出してから移住するまでに 2 年間、 ゆっくりと段階を踏みながら進めました」(功義さん)
その後移住先を探す中で、高知県土佐刃物連合共同組合による「鍛冶屋創生塾(※1)」と出会った功義さん。「無給」「住み込み」というイメージがあった修行が、助成金を受けながらできるというこの制度は、家族がいる功義さんには嬉しいものだった。これをきっかけに、まずは現地に行ってみようと、初めて高知を訪れることとなっ た。1カ月間の高知滞在中、功義さんが出会い惚れ込んだのが、四万十町にある鍛冶屋「黒鳥」だっ た。
「お店に伺った時、まず『かっこいい』という印象がありました。土佐打刃物の昔からの良さを活かしながら現代のニーズに合わせた刃物が置いてあり、『あ、これを作りたい』と思ったんです。それと、誰に教えてもらうのか、誰が師匠になるのかということが自分の中ですごく大事だなと思っていたので、滞在期間中は今の師匠の梶原弘資さんに何度か同行させてもらいました。その中で『この人の弟子になりたい』と思ったんです」(功義さん)
黒鳥が作る製品、そして師匠の人柄に魅せられ、功義さんは自分の新しい道に「黒鳥」を選んだ。
また、高知への移住を決める際、「とてもありがたかった」と功義さんが話すのは、高知県UIターンサポートセンターの移住コンシェルジュ(※2)の存在。黒鳥で働きたいと心に決めた時、スムーズに移住、勤務ができるよう各方面への問い合わせをしてくれ、手厚くサポートしてくれたという。
「心強かったし、一人じゃ無いんだという気持ちにさせてくれました」(功義さん)
2月上旬、黒鳥で働く功義さんを取材に訪ねると、驚いたことに、功義さんと同年代の男性が他にも数名働いていた。黒鳥では、6代目の梶原弘資さんの代になって以降、積極的に弟子を受け入れているという。
「これだけお弟子を抱えられる鍛冶屋って、多分少ないんじゃないかなと思います。ありがたいことに、今は注文が多く人手が足りないくらいなんです。弘資さんは昔気質に『これだけやっていればいい』という感じではなく、ちゃんと私たちの意見も聞いてくれます。自分が働きたいと言った時も、快く受け入れてくれました」(功義さん)
黒鳥の環境で働いたこの1年間、辛いと思うことが一日もなかったという。それは、「失敗してもいいからやってみろ」と師匠が構えてくれていること、そして、「積み上げていける」という特徴のある鍛冶屋の仕事のおかげだと話す。
「技術をものにするまでには時間がかかりますが、それが全然苦にならない。サラリーマン時代は、 異動があるとそれまでに身につけたことが活かせなくなってしまうことが嫌だったんです。今は反対に、積み上げたことが無駄にはならずに生きてくるので、楽しいですね」(功義さん)
自分の夢を打ち明けてくれた夫の気持ちを尊重し、複雑な思いを抱えながらもともに決心をして 四万十町へ移り住んできた雅江さんも、四万十町に来て良かったという気持ちは一緒だという。
雅江さんは現在、移住相談員として自分たちと同じように移住を検討している方の相談に乗ったり、移住者向けの住宅や空き家紹介などの仕事をしている。移住前、まだお腹の中にいた子も今では2歳になり、 周囲の環境も家族のライフスタイルも、ガラッと変わった。
「この町では、人との接し方が東京にいた頃とは全く違う。東京にいた頃は誰かに親切にしたくても、自分の気持ちが伝わらないこともあって、人の優しさを感じることが少なかったんです。 でも、ここでは当たり前に人に対して優しくできる。こっちに来て初めて素の自分でいられるような気がしています。スーパーでおじいちゃんに声をかけられて、『冷凍のうどんはどこかねえ』 なんて聞かれて、『あっちですよ』と答える。東京では話しかけられるだけで怖いじゃないですか。 お互いが疑心暗鬼でいなきゃいけない。でも、こっちではそれが一切なくって。そこが一番良か ったなって思います」(雅江さん)
「四万十町に来て良かったと思いますか」という2人への問いに、真っ先に「それはもちろん」 と答えたのは、雅江さんの方だった。
大都会の中で過ごしてきた2人が、山間の地で一年間、小さな子と共に新たな暮らしを築き始めた。まだ始まったばかりだけれど、今の暮らし、そしてこれからの暮らしに対して抱いている思いは、「キラキラ」以外の何物でもない。
「弘資さんと黒鳥を盛り上げて、大きくしていきたいです。一緒に頑張って四万十町を盛り上げて、多くの人に来てもらえる場所にしたい」(功義さん)
「こ近所の方や町民の皆さんに本当に良くしてもらっていて、 たくさん助けていただいていて。 その恩返しに、 四万十町のためにできることをしていきたいなって思います。どこを切り取っても絵になるような自然豊かなこの町で、 のびのび子育てをしていけたら」(雅江さん)
都会で生まれ育ち、 地元を離れることを想像もしていなかった。 そんな時もあったけれど、今は高知県四万十町に、そこで暮らす小原家に、「キラキラ」とした世界、 未来が広がっている。
「最初は家の周りに街灯がなくて怖かったけど、星空がすごく綺麗なので、今はむしろ『街灯消えないかな』って、思っているくらい」(雅江さん)
鍛冶屋という生業を中心に、小原家の新たな生き方が四万十町で始まっている。
※1 高知県土佐刃物連合協同組合による鍛冶研修生の育成プログラム。2年間をかけて将来高知県内にて独立し鍛冶屋を目指す鍛冶研修生を育成するもの。
※2 高知県内への移住を希望する人に対し、相談や希望に合った地域の提案、現地訪問のコーディネートなどをしてくれる。
TURNS×四万十町連載始まりました!
四万十町についてこれからどんどん発信しながら、全12回の連載でお届けしていきます!
Text : 岡本里咲 Photo : 鈴木優太