伝統工芸から受け継ぐ、 自分への手紙

京都府京都市 開化堂

伝統工芸とは、人生に関わりのないもの。
そんな思い込みを「お茶筒」がひっくり返した。
工芸との出会いが、自分の軸を見出す手助けをしてくれる。
職人だけでなく自分もまた、工芸を未来につなぐ継ぎ手の一人なのだ。

自分に自信がなかった、と職人がこぼした

伝統工芸と、出会えるのか

伝統工芸が、わからない。自分とは別世界のものに対して、どう向き合ったらいいのか。もはやわかることを手放していた。だって、時代を超えて変わらずに大切にされてきた伝統工芸品と、何もかも変わっていく根っこのない水草のような自分の人生は、どうにもミスマッチに見えるのだ。

仕事、住む場所、人間関係、お金の使い方、何もかも自分の意志で変えられる人生。それを望んできたはずでありながら、全てを変えられることは絶望でもあると知った。自分の「まんなか」を貫く軸が、わからない。自分には、変わらないものなんてあるのだろうか。

伝統工芸を受け継ぐ職人は、そんな自分とは相反する生き方に思える。家業があって代々受け継がれてきた技があり、それは「伝統工芸」と名を背負うべきもの。「この人といえば」と連想される代名詞が、家を継いだ瞬間に決まる人生。自分が何もかも変えられる状態に近づくほど、彼らの確固たる軸はずしんと重量を放ちながら、それでいてまぶしく見えてしまう。

だから彼らがつくる伝統工芸品は、遠くの世界に存在するものだと思っていた。子どもや孫に受け継いでも色あせない「本物」と一緒に年を重ねていく、素敵な暮らし。伝統工芸品がよく語られる文脈のとおりだから、何百年も愛されてきたのだろう。対して、一年後にどこで何をしているのかもわからない自分。そんな人生では、子どもや孫に受け継いでいく前提でつくられたものを手にできる気がしないのだ。だから伝統工芸品は、今の自分にはガラスケースの外側から見ているしかないもの。いつか手にできるときは訪れるのだろうか、と想像したくなるもの。伝統工芸品とは、そういうものだった。

しかしあるとき、美しい缶と出会った。究極のシンプルを極めたようなデザイン。曲面に映り込む光は、上品にやわらかな輝きを放っている。金属製でスタイリッシュなのに、冷たさを感じさせない。凛としたそのたたずまいに、ひと目見て惹きつけられた。

これは、「お茶筒」と呼ばれる道具らしい。お茶の葉を新鮮に保つためにつくられた缶だそうだ。つまり、ガラスケースの向こう側に置いて鑑賞する対象ではなく、毎日当たり前のように手にする道具。これが、明治初期から百四十年以上つくられてきた伝統工芸品らしい。このお茶筒をつくり続けてきたのが、京都にある「開化堂」だという。六代目・八木隆裕さんは、暮らしのなかにあるお茶筒をこんな言葉で表現した。「お茶筒のふたを開け閉めする気持ち良さを毎日味わっていたら、大げさでなく日常への意識が変わる」。「お茶筒は、行き詰まったときに背中を押してくれるもの」。いや、大げさでしょう。そう思った。でも八木さんは、こうも言った。「自分に自信がなかったんです」「人生って常にしんどいじゃないですか。だからいつも心の拠り所を探していました」。ずっとぶれない軸を持っているように見えていた職人が、自分の軸となるものを求めていたと目の前で語ったのだ。

変わらないから受け継がれてきたように見える伝統工芸品は、何でも変えられる生き方と共存できるのか。伝統工芸品と自分の人生は、どう関われるのか。八木さんが自分の「まんなか」を育てていった道のりは、この問いの答えを探すヒントを見せてくれた。

軸を理解して、初めて未来を描けた

自分で責任を持つ覚悟から始まった

「わしが『継げ』言うたんやない、お前の責任やしな」。開化堂の六代目・八木隆裕さんが職人の道を歩み始めるとき、父である五代目・聖二さんはこう言った。お茶筒が生活から消えかけ、開化堂の先行きを見出しにくかった時代。聖二さんはすでに、自分の代で開化堂の看板を下ろすと決めていたのだ。その反対を押し切り、八木さんは二十五歳で開化堂に入る。そこには、自分の人生を他人ごとにしたくない意志があった。

開化堂に入る前、八木さんは京都のお土産品を販売するショップで会社員をしていた。あるとき「贈りものを選びたい」とお客さんが来店し、八木さんもカタログをめくりながら時間をかけて一緒に選んだ。しかし後日、その贈りものを受け取った人が返品を要求してきたのだ。「気に入らないから返品したい」の一点張りに対して、八木さんは「申し訳ございません、うちでは無理です」と断った。自分の言葉にならない「申し訳ございません」を言わざるを得なかった経験が、心に引っかかる。「そうか、会社に勤めているってこういうことなんかと思いました。親父にとって、開化堂でおきることは全て自分ごとだったのを見てきたから。僕には大きな出来事でした」。自分の人生を他人ごとにしたくない。三年間の会社員生活を経て、自分の道を歩む決意を固めた。「父から言われた言葉の意味を、今でもずっと考えています。ぜんぶ自分が責任を持たなければいけないんだなって」。八木さんの開化堂での歩みは、人生を自分ごとにする覚悟とともに始まった。

継がれてきたものに、変わらぬ軸を見出した

八木さんは、父がもう無理だろうと思った開化堂の仕事でも、自分の分だけなら食べていけるかもしれないと考えていた。最も可能性を見出していたのは、海外での販売だ。しかし当時の開化堂は、国内のお茶屋への卸売販売のみ。お茶筒をお客さんに直接届ける機会がほとんどなく、父には「海外で売れるわけがない」と言われていた。しかし八木さんは、お茶筒を外国の日常に届ける可能性に賭けたのだ。ただしお茶筒を売る前に、まずは職人にならなければいけない。開化堂にはお茶筒をつくるためだけに百年以上研ぎ澄まされてきた技術があり、金属の板がお茶筒になるまでに百三十以上の工程がある。その全てを習得すべく、八木さんは十年かかると言われる修行を始めた。父に言われたとおりに、同じ作業を続ける毎日。職人の仕事は、言葉では伝えられない感覚に頼る部分が大きい。「見て覚えろ」「ガッとやれ」。できあがったものを見せてはダメ出しされる日々が続いた。言葉にならない「開化堂らしさ」をつかめず、海外での販売にたどりつけないのではないかと、心が折れそうになる夜もあった。「当時は親父の仕事で開化堂が成り立っていたので、自分に自信がなかった。自分も開化堂らしさを継いで、この家を次の代につなげられるのか。嫁に『親父と同じことをできるかな』とよくこぼしていました」

転機となったのは、八木さんが三十代に入った頃に海の向こうから届いた一通のメールだった。イギリスにある紅茶屋から、お茶筒を販売したいと声がかかったのだ。取引が決まるとすぐに、八木さんはロンドンに飛び立った。当時の開化堂にとって、海外出張の予算が十分にあったわけではない。それでも腹をくくり、お茶筒に込める思いや開化堂が受け継いできた歴史をロンドンの人々に直接伝えた。毎日お客さんとの会話を重ねた結果は、大盛況。八木さんが体得するために長らくもがいてきた「開化堂らしさ」が、海を越えてたしかに届いた瞬間だった。

ここから着実に海外での販売を増やし、海外の暮らしに合わせてパスタ缶やコーヒー缶などの新商品を開発した。ゼロだった海外での販売を、今では十三の国・地域で展開している。「だんだんと右肩上がりになる開化堂を見て、自分も屋台骨を支えているかもしれないと思えるようになりました。それまでは海外で売れるはずだと一人で思い込んでいただけなので、自分の思い描いていたことが形になって、初めてほんまの揺るぎない軸を持てた気がします」。伝統工芸とは何なのか、工芸によってどんな未来を描けるのか。この問いと向き合い続けた八木さんは、十年以上の時を経て、開化堂に受け継がれてきた一本の軸を見出した。

それでも「開化堂らしさをつなげるためにはこの方法でいいのか、今でもすごく迷うし、ずっと考えているし、へこむし、眠れなくなる夜もある」と言う八木さん。遠い存在だったはずの職人も、伝統工芸がわからないともがいてきたのだ。わからなくても手放さず、必ずや自分ごとにするのだという覚悟とともに。

自分の軸を支えてくれる原体験

開化堂が描くのは、
開化堂だけの未来ではない

開化堂の知名度を高めた八木さんが次に挑戦したのは、カフェの直営だ。二〇一六年、開化堂本店の近くに「Kaikado Café」を立ち上げた。コーヒーや紅茶、日本茶がお茶筒に入れられ、カップからコーヒードリッパー、荷物用の竹かごまで、伝統工芸品を取り入れている。お茶筒だけが売れても、他の工芸が消えてしまったら、意味がない、と考える八木さんは、この空間に「工芸のある日常を体験してほしい」との願いを込めた。「僕が見ている工芸のいいところや、こんなして使ったらおもしろいで、と思う使い方を伝えたい」。わからないと思っていた伝統工芸を、まずは自分の感覚で受け取るところから始めればいい。ここでは、工芸が手のひらにある。

長らく扉が開けられていなかった京都市電の洋風建築をリノベーションし、京都の工芸品を手で感じられるKaikado Café。海外での伝え方を模索しながら「開化堂らしさ」への感覚を研ぎ澄ませてきた八木さんが、原点である京都にもう一度目を向けたのだ。「開化堂をメディアで紹介してもらえるときに、『京都の開化堂』と言われるんです。みんなが背負ってはる『京都』の一部を背負わしてもらうなら、自分には何ができるのかを常に意識しています」

開化堂の軸を育ててきてくれたのは、京都の土地であり京都の人々だ。そう思うからこそ、八木さんは苦労して開拓してきた海外での販売網を他の職人に紹介するなど、受け取ったバトンを次の担い手に渡している。「だって周りが助けてくれなければ、僕はここまで来られなかった。その人たちにどう返そうかを考えたときに、直接返すのではなく、京都や工芸に貢献したいと思うようになりました。次につなげたら、お世話になった人たちにきっと返っていくはずなので」

伝統の持つ「らしさ」と、自分の「らしさ」

「工芸が未来を変えられるかどうかはわからない。でも僕は、変えられると信じています」。自分の役割は、開化堂を六代目から七代目につなぐための土台をつくること。そう見定めた八木さんは、開化堂や工芸の軸を次の世代に伝える努力を惜しまない。その一つが、Kaikado Caféの内装や食器を手がけたクリエイティブユニット「GOON」だ。二〇一二年に、京都で伝統工芸を受け継ぐ職人六名で立ち上げた。目標は、工芸の軸を次の世代につなげるために、職人を憧れられる職業にすること。工芸とデザインやサイエンス、テクノロジーを橋渡ししながら、国内外で工芸のあり方を伝えている。

気づけば八木さんの周りには、同じように継がれてきた工芸の「らしさ」を模索し、ものづくりに意志を込める仲間たちがいる。彼らと活動をともにすることで、次第に自分の軸も定まっていった。八木さんはGO ONのメンバーと「美しさの原体験」について話していたとき、自分が美しさを感じた原点を見つけたのだ。「僕は小学生のとき、田んぼに囲まれた場所に住んでいました。夏の夕暮れに田んぼの真ん中で一人でカエル釣りをしていると、太陽が沈んだ後に空が青から黒に変わる瞬間があるんです。すーっとしずかに変化する光景が未だに頭に残っています」。仲間から返ってきた言葉は「それ、お茶筒のふたがすーっと落ちていくのとそっくりやん」。八木さんの心が動いた、ささやかな、でもたしかな記憶。自分がお茶筒に気持ちよさを感じる原体験は、ここにあったのか。受け継がれてきた開化堂の軸と、八木さんが拠り所にしてきた「まんなか」が重なった。

誰もが、伝統工芸の継ぎ手だ

お茶筒が、自分らしさを写す鏡になる

さまざまな新しい挑戦をしてきた八木さんが「何をつくっても開化堂だから」と言えるようになったのは、ここ最近のことだと言う。時に「これを開化堂でやっていいのかな」と不安になりながら、開化堂らしさに挑んできた。「あかんかったら、お茶筒に戻ればいい」。変わるものがたくさんあるからこそ、変わらないものが強く育っていく。

開化堂で二十年以上を過ごしてきた今、お茶筒は開化堂の軸を体現するだけでなく、八木さんの軸をも支えている。「お茶筒が僕のまんなかにあるから、何でもできる。お茶筒を起点にみんなで楽しむにはどうしたらええんやろ、といつも考えています」。そんな八木さんの「楽しむ」は、つねに百年先を見据えている。百年前に開化堂で購入されて代々使われてきたお茶筒が、修理のために今の開化堂に戻ってくるのだ。今年購入されたお茶筒を百年後の開化堂が修理できるように未来につなぐのが、八木さんの考える自分の役割だ。「百年後もあいかわらずお茶筒をつくっていたいです。僕はずっと続けることが好きなんやと思います。お茶筒をつくり続けることが、自分を支える拠り所になっていて、一番落ち着くのかもしれない」。八木さんは、自分らしい開化堂の継ぎ方を見定めた。

開化堂のお茶筒は、気持ちよくふたを開け閉めできるように手仕事で調整されているため、一つとして同じお茶筒はない。そして職人ができるのは、あくまで「基準をつくる」ところまで。受け継がれてきた開化堂の基準から何を受け取り、どう向き合うのかは自分次第だ。お茶筒はなで方や経年によってその姿を変え、数十年の時を経て自分らしさを映し出していく。

つまり、伝統工芸との向き合い方がわからない自分もまた、工芸を未来につなぐ一人なのだ。職人が未来を託した工芸品は、いつか工芸がわかる自分への手紙なのかもしれない。それならガラスケースの向こう側に置いておくより、今はまだわからなくても、自分の手のひらでその願いを受け取ってみよう。お茶筒を拠り所にして、じっくり自分らしさを育てていこう。八木さんが「まんなか」にある願いを込めたお茶筒は、自分の「まんなか」を見つける一つの手がかりになってくれるから。

 

文…菊池 百合子 編集…佐藤 芽生 写真…山崎 純敬

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