紀伊半島の東部、日本一の降雨量で有名な尾鷲(おわせ)市。昔ながらの暮らしの中に残された空き家問題を解決するのは、地域おこし協力隊から始まった官民の連携だった。
名古屋から南紀鉄道を下って三時間。海と山がめいっぱい肩を寄せ合ったような険しい自然の中、その僅かな平地にあらわれる町と漁村が尾鷲市だ。湾曲した海岸線を大きな輪に見立てて「大輪内」、それが現地の言葉で訛って「おわし」、「おわしぇ」と呼ばれたのが尾鷲の語源になっているとか。そんな大きな輪の中には九つの集落が点在していて、それぞれでのどかな漁村の原風景が広がっている。
こうした旅情に惹かれて訪れる観光客も多い中、市としては年々減っていく生産年齢人口、また増えていく空き家の数に悩んでいた。尾鷲市の空き家率は全国平均の2倍にあたる約27%。そんな深刻な地域課題を解決する担い手として導入されたのが地域おこし協力隊制度だった。そして近年の尾鷲市においては、協力隊と協力隊OB・OGと行政が密に連携した空き家対策が進んでいる。
現役協力隊員の谷津健太さんは”尾鷲に新しい人の流れを作ること”をミッションに2018年より着任した。住まいから仕事まで、尾鷲での暮らしを包括的に案内するコンシェルジュを担いながら、市との共同事業である「空き家バンク」の運営も担っている。空き家バンク設立から6年が経つ現在、登録件数が254軒と全国的にも高水準な数字を出しているのは、組織としての定住移住協力隊による尽力の結果だと語る。
「空き家の発掘から登録、そして人のマッチングまでを、定住移住協力隊らで結成したチームで担っています。空き家を売りに出すことがはばかられたり、制度自体をご存じない地域住民も多い中、ポスティングや説明会などを着実に行ってきて、『空き家は資産』という考え方が浸透してきたんです」
こうして協力隊員が空き家バンクを充実させる一方で、物件活用の幅を広げる役割を担っているのが、2018年に協力隊OB・OGが設立した『NPO法人おわせ暮らしサポートセンター』。協力隊が持つ裁量や活動費の中では難しい大掛かりなリノベーションを行ったり、民間団体であることを活かして特定の個人や団体に貸し付けたりなど、物件に新たな付加価値を足して街を活性化させようという試みだ。2019年に協力隊員の任期を終え、現在NPOの副理事を務める中尾拓哉さんはこのように語る。
「協力隊は三年と任期が決まっているし、行政からの委託事業なので立場上できないことが多々あります。そんな消化不良な状況を打破するために、当時の協力隊の仲間とNPOを設立しました。また協力隊が三年後も尾鷲に残っていくための受け皿として、民間の団体が必要だったんです」
そんな協力隊とNPOとの連携を支える軸として行政の立場がある。尾鷲市役所政策調整課の野田憲市さんが空き家バンク事業に携わったのは2014年から。もともと市役所職員のみで取り組んでいたところから協力隊を導入したのは、その一年後のことだった。
「魚が美味い、空気がきれい、星がよく見えるだなんて、ずっと尾鷲に住んでいる私達には分からない。移住をPRするなら実際に移住してきた人の目線で自由にやってもらうのが一番なんですね」
こう語ると、そういえば最近星なんか見なくなったなぁ、と移住者の二人。そんな彼らを「ずいぶん尾鷲人になってきたやないか!」と野田さんは笑い飛ばした。協力隊という制度をフックに共通課題に取り組む中で、着実に地域に根を張ってきた姿が想像できる。
次では、そんな三者のこれまでの人生やこれからの展望について更に迫っていく。
地域課題と自分の夢が繋がる環境
協力隊として夢を追うために
澄んだ海、歴史を感じる古民家、細々と力強い地元住民の生活……。そんな尾鷲の原風景も、裏を返せば首都圏からのアクセスの悪さから生まれている一面がある。はるばる移住するには高いハードルを感じさせる立地だが、それでも谷津さんが移住してきたのは、尊敬できる先輩隊員が数多くいたからだという。
「尾鷲市の協力隊は個人事業主の立場なので、活動の制限があまり無い。例えば、WEBライターとして副収入を得る人もいれば、『梶賀の炙り』という郷土食のプロデュースに取り組み起業した人もいます。将来の起業に向けた拠点を求めていた身として、尾鷲はとても魅力を感じました」
そんな先輩を知ったのは協力隊募集の際の現地見学会でのこと。実はNPO副理事の中尾さんとは徳島県にいた頃からの知り合いで、彼が谷津さんを招待したのだった。
そんな中尾さんも海外で仕事をして帰国した際に、日本の社会課題に取組める仕事を探して協力隊に志望したそうだ。
「空き家の増加は日本のどの地方でも困っている、規模の大きい社会問題です。全国の地方の中でも尾鷲はアクセスが良くないし、観光資源も近隣の自治体に比べて少ないという決して有利ではない土地。そんな中で移住定住のミッションを達成できたなら、日本のどこでだって仕事ができるんじゃないかと考えたのが、尾鷲で協力隊に入るきっかけでした」
尾鷲には、強い意志を持ち活動的な協力隊員が集まっている。そんなアクティブな状況が市内外にも認められ、今では三重県全域に着任する協力隊の研修拠点として尾鷲市が選ばれることとなった。
しかし初めて協力隊制度を導入した2014年度、その時の隊員は3年の任期満了を迎える以前に尾鷲を出ていってしまったという。準備が不十分だったというこの失敗を機に、制度を見直し隊員の自由な活動を支える現在の体制ができあがっていったと、政策調整課の野田さんは語る。
「今は協力隊の全員が業務委託になっています。それは臨時公務員としての身分が協力隊の活動にそぐわないことが多いからなんです。例えば漁師の手伝いがミッションだとしたら、九時五時の勤務体系は合わない。移住相談の窓口だったら土日も対応できた方が移住希望者と向き合える。公務員のものさしで活動範囲を狭めてしまうと、本来のミッションが達成できません。また臨時公務員の立場では、役所の人間との上下関係が生まれてしまいます。対等な目線でやりたいことをやってもらうことが一番だと考えました」
そうして活動の自由度が高まる一方で資金の管理を自分で行わなければならないなど、その責任の重さを野田さんは指摘した。だが改定を行って以来、ほとんどの隊員が任期満了まで活動を続けるようになったという。
続きは、TURNS vol.41 p.117に掲載中