世界有数の銀の産出地だった石見銀山を擁する島根県大田市大森町。世界遺産に登録され、多くの観光客が訪れるこのまちの暮らしや風景を守り続ける会社がある。義肢装具制作会社の中村ブレイス。高い技術力で業界を牽引するだけでなく、本業の収益を使って古民家を毎年のように改修。住居や店舗や施設に生まれ変わらせ、まちににぎわいを生んできた。「人に喜んでもらう」。本業も、まちづくりも、その気持ちが突き動かしている。
義肢装具でまちを復活させる
高台から見下ろせば、山に囲まれた平地にずらりと茶色の瓦屋根が並ぶ。歴史を感じさせる大森町には、最盛時は二十万人もの人が住んでいたと言われるが、一九二三年に銀山が閉山して以降、衰退の一途を辿っていた。増え続ける空き家に命を吹き込んできたのが、五十年前に義肢装具会社を立ち上げた、現会長の中村俊郎さんだ。長男で社長の宣郎さんから見ても、地元を思う父の熱量はすごかったという。「子供ながら会長が古民家を改修しているのを見て、今度は何になるのかなぁというくらいにしか思っていなかったんです。年中休まない人で、休みの日でも古民家のことで忙しくしていました」。俊郎さんは義肢装具を学ぶために京都と米国で修行し、大森町に戻った。実家の納屋を改装して起業したのが、古民家再生の一軒目となった。
「その名を轟かせた故郷が廃れていくのが悲しかったようです。全国や世界の人に喜んでもらえる義肢装具をつくり、世界に誇れるまちを守りたいという思いが強かったんでしょうね」(宣郎さん)
最初の売り上げは、親戚に作ったコルセット代、一万二千三百円。次第に品質の良さが評判を呼び、島根鳥取の病院から仕事を受けるようになっていった。
創業50年になる中村ブレイス。培ってきた経験と高い技術力でつくる装具や義肢の製品は、全国のお客さんから高い信頼を得ている
高い技術と良質な製品
「古民家再生も、本業があってのもの。私たちは義肢装具の会社としていい仕事をすることが大前提にあります」
自らも義肢装具士の資格を持つ宣郎さんは話す。同社が作るのは義手や義足の「義肢」と、コルセットやサポーターの「装具」。生まれつき、あるいは病気や事故が原因で何かしら身体的に困っている人たちを支える仕事だ。病院で医師からの処方を受け、それぞれ個人の特徴に合わせたオーダー品も作る。また、オリジナルの既製品を開発、販売している。
臨床の現場や患者の声に向き合い、積み上げてきた技術力こそ中村ブレイスの強み。シリコーンゴムを世界で初めてインソール(靴の中敷)に用いるなど、挑戦を続けてきた。工房では黙々と義肢装具と向き合う社員らの姿があった。「こうやって透明な外形の内側から少しずつ色を塗り重ねていくんです。人それぞれ肌の色、血管の浮き出し方、皺、全てが違うので、専門の技術者たちが細かな仕事をしてくれています」
シリコーンゴムを使った義肢は、本物と見間違うほど。かつての石見銀山の繁栄を支えたのが高い精錬技術であったように、分野は違っても確かな技術がこのまちを豊かにしている。
まちづくりをする理由
なぜ古民家を再生し続けるのか。義肢装具と古民家再生は、全く関係がないようにも思える。改修費も一軒あたり最低二千~三千万円という。昨年オープンした図書館「石見銀山まちを楽しくするライブラリー」には約二億円をかけた。
古民家再生の活動を通してまちづくりに貢献しているなかむら文庫の代表理事、中村哲郎さん。「会長の思いを受け継いでいきたい」と話す
まちづくりの活動は、これまで俊郎さんが自ら動いてきたが、五年前に一般社団法人なかむら文庫を創設して活動を引き継いだ。中村ブレイスの専務で次男・哲郎さんが代表理事を務めている。
「実際、本業の売上に関係ありませんし、投資を回収しようとしていたら古民家再生なんてできません。人から見たら自己満足かもしれませんが、私も今ならなぜ会長が古民家を直し続けてきたのか分かる気がするんです」
事業が拡大するたびに義肢装具士の資格者が全国から大森町に移住。最初は社員が住む家を確保することが目的だった。「大森町の住民は約四百人。そのうちの二割に当たる約八十人が、改修した古民家に住む社員やその家族、関係者です。うちで働きたいという人が大森町に来てくれ、家族を持ち、子育てしてくれたら今度は保育園や小学校にも影響をしてくる。すべてまちづくりにつながっていますね」
やがて、宿泊施設「ゆずりは」や大正時代にあった芝居小屋をイメージして旧大森郵便局を改装したオペラハウス「大森座」など、さまざまな施設を手掛けるように。担ってきたのは、建物の改修だけではない。十数年前、幼稚園の園児が少なく閉園の危機に直面した時も手を差し伸べた。二年間、幼稚園の人件費や維持費を自前で払うことで園は存続でき、今では文化や暮らしを学びながら育つ「大森さくら保育園」となって約三十人の子どもたちが通っている。
世界に誇れる仕事があり、そのまちに人の豊かな暮らしがあること。小さなまちに好循環が生まれ始めた。
写真家の作品が並ぶ日高さんのカフェ(下)や旧大森郵便局を改装したオペラハウス(右)など、古民家を再生して人の営みや文化を生み出している
豊かな暮らしに集う人たち
「自分たちの代が再生活動をやるようになって、会長のやってきたことがわかるというか、責任を感じるようになりました。大森町も小学校の統廃合問題が出てきていて、そういう現状を見ると何か協力できることはしなければと思います。改修した古民家に人が住んでくれたら人口が増え、まちの活性化につながるのでやっぱり重要な活動だと実感します。会長の大森を愛する気持ちを引き継いでいきたいですね」
そう哲郎さんが言うように、創業五十年で改修した古民家は六十五軒。その熱量がここで働きたい、ここに住みたいと言う人を呼び込んだ。
岡山県出身の日高晃作さんもその一人。国内でパン職人の修行をした後、ドイツに渡ってパンのマイスターの資格を取得した日高さんが、独立の場所として選んだのが大森町だった。
「もともとここは中村製パン店というパン屋で、先代がお店を閉められ、空き家になっていたんです。中村ブレイスの会長が改修していてこのまちにパン屋が欲しいと職人を探されていて、そこの息子さんと知り合いだった僕に連絡が来たのが最初でした」
当時東京に家族で暮らしていた日高さん。島根県での開業は考えていなかったが、一度訪ねて現場を見にきた時に大工からパン工房仕様にするための助言を求められ、気づいた時には自分の店を想像しながら話をしていた。
「その気になったし、会長の『四百人の田舎町から世界に向け、パン屋をしないか』という言葉にも心を動かされました。おもしろいそうだなって。古い街並みも良かったし、僕ら世代も同じ時期に増えていました。最初は単身で店をやり、後々家族も引っ越してきてくれました」
ドイツでパン職人として経験を積み、大森町に移住して開業した日高さん。地元住民はもちろんたくさんの観光客で賑わうパン屋になっている
パン屋「ベッカライ コンディトライ ヒダカ」は、今や地元住民や観光客がこぞって来店する人気店に。また隣に「アイス&カフェ ヒダカ」もオープン。店内には近くに住む写真家の作品が展示されるなど、食だけでなく文化拠点にもなっている。
大学と連携した図書館
「うちの子も休みの日にはライブラリーに行ってくると言って、出かけていくんですよ」と日高さんもおすすめしてくれたのが、大森町にできた新しい拠点「石見銀山まちを楽しくするライブラリー」。旧商家の松原家を中村ブレイスが改装した。
「旧朝鮮銀行の総裁もされるなどこの地域の名家で、敷地面積も五百七十五平方メートルを超える広さ。普通の住宅にするにはもったいない建物でした。会長が島根県立大学で副学長をされていた故・井上厚史さんと話をし、学生たちの学びに活かせる図書館にする計画を進めることになりました」(宣郎さん)
二〇一九年に包括協定を結び、同大学の図書をコンセプトとしたサテライトキャンパスを作る計画がスタートした。設計は、Soup Stock Tokyoのインテリアデザインも手がけるなど豊富な経験を持つ地域政策学部講師の平井俊旭さんが担った。
「会長がイメージされていた〝学生が活き活きと活動する場〟を実現させるためには、単に学生が使う図書スペースや教室では無く、むしろ学生がプロとしてお客様をお迎えする施設にすべきだと考えました」と平井さん。
行燈をイメージした書棚には、各界の著名人らが選ぶ「人生に影響を与えた本」が陳列選書。石見銀山の坑道をイメージした「えほんのどうくつ」は子供たちにも人気のコーナーだ。そのほか、カフェやコワーキングスペース、水遊びもできるプール広場など、幅広い世代が集える落ち着いた空間になっている。
図書をテーマに大学と地域が結びついたライブラリーは、さまざまな人たちが集まる場所となっている
「一般社団法人ヨリシロを立ち上げ、大学から委託事業として運営を任せてもらっています。学生を雇用し、カフェではメニュー開発や接客まで学生が担当。だいたい三十人くらいの学生がこのまちに来ていて、授業以外での人のつながりを経験し、リアルに地域づくりを学んでいます」
人と人をつなぐ場所として、古民家にまた一つ新たな灯りがともった。
人やまちを支える役目
「あそこも空き家だし、空いていても譲っていただけない家主さんもいるし、難しい時代にもなっています。次の物件は具体的には決まっていませんが、その時々のタイミングで必要とされるものをつくっていけたら」
一緒にまちを歩きながら宣郎さんが話してくれた。一企業がここまでまちづくりに関わり、美しい街並みを残してきたことに本当に驚かされた。ライブラリーを設計した平井さんも、理想を詰め込んだ設計案が総額二億円もの費用になり、減額案になることも覚悟したが、中村ブレイスはGOサインを出した。
「会長のビジョンを具現化するためのベストプランをご提案させていただき、ほぼ全てを実施させていただけました。これは中村ブレイスさんだからできたこと。義肢装具という仕事柄なのか、そんなに世間では知られていないのですが、地域の志ある企業がこうやって人やまちを支え続けていることに感銘を受けます」
工房で働く義肢装具士の女性は大分県出身で熊本県の学校を卒業後、「中村ブレイスの考え方が好きでここを選びました」と教えてくれた。中村ブレイスの思いは、確かに継承されている。
「自分が大学に通わせてもらえたのも、社員の皆がものづくりに励んできてくれたおかげ。その社員が楽しく暮らせ、このまちを好きでいてくれたらそれが嬉しい。これからもコツコツと、良いものを作っていきたいですね」(宣郎さん)
社名の「ブレイス」は「支える」「勇気づける」という意味。これからも誰かの人生を支え、まちの未来を照らしてゆく。
編集・文・写真…藤田 和俊