まち全体が学びの場

島根県津和野町

目次

「地域の過疎化」が言われて久しいが、
この言葉の発祥は島根県からだそうだ。
そんな島根では「高校魅力化」や
「教育魅力化コーディネーター」というような
教育を軸にしたまちづくりを全国で先駆けてスタートしている。
この津和野町もその一つだ。
ローカル線の山陰本線で緑豊かな山間部を抜けると
ひっそりとした美しい城下町が見えて来る。
文豪・森鴎外の故郷でもある津和野町。
人口七五〇〇人と過疎化の激しい
この小さな城下町のまち全体が学びの場だ。

 

津和野から教育が変わる

和野町教育魅力化統括コーディネーター中村純二さん
津和野町に移り住み七年。
彼は過疎化の危機に面した津和野町を教育で魅力的に生まれ変えた〝愛のあるよそもの〟。
完全な内部の人ではない絶妙な間合いで学校と地域とコミットし、外からの目線でイノベーションを起こす。
まち全体を彼は学びの教室にしていく、これからの時代を生きる教育人。

 

津和野は教育の常識を変えていける
フィールドだった

高校魅力化の発端は人口減少における学校の統廃合の打開策として、隠岐島前高校からスタートし、島根県全体に広がりました。津和野高校も同じく統廃合まで秒読みの状態でした。もともと僕は昔教員をしていて、共通の友人を通じ津和野町の行政の方から「田舎の学校が一つ消えるという事は、その町の未来が消えるのと同じことです。ぜひ津和野町の高校魅力化に携わって欲しい」とお誘いをいただきました。最初は少し抵抗がありましたが、自分自身の教員時代に抱いていた学校の閉鎖感、先生たちの同質性の課題を解決できるフィールド、チャンスになるのではと「まずは一年間だけ……」とここ津和野町にやって来ました。いつの間にかもう七年が経ってしまいましたが(笑)。

 

学校を魅力化させるための三つのアプローチ

この学校をどのように魅力化させていくか。方向性は学力を上げ優秀な人材を外に出していくのではなく、まち全体を学びの場として、もっとこの町の問題や課題にコミットしていく学校づくりをすることに決めました。具体的には、一つ目にリアルな問題や課題に直面させること。身近であればあるほど生徒自身に問題意識が芽生えます。リアルな大人の涙や苦しみ、においがちゃんとする課題……。子供たちの心を揺さぶる素材はこの町にいっぱいあります。二つ目に学校内のインプットに加え、学校の外でのアウトプットの場を作ること。彼ら自身から生まれた問題意識に合わせてアクションできる機会をつくっていく。三つ目は地域の大人との出会いと協働。あるプラモデル好きの学生が地域のプラモデル好きの大人と一緒にプラモデル部を作る事になりました。部活って大人と子供で作ってもいいんだと、学生の行動から大人の我々の考えが変わる事もあります。学校をひらき、地域全体で学びの場をつくるには、大人を育てることも大事なんです。

 

鍵となる教育魅力化コーディネーター

高校魅力化の鍵を握るものの一つはコーディネーターの存在です。

生徒や先生の壁打ち相手でありながら、学校と地域や住民をつなぎ、さらには町の枠を越えて民間企業との接点をつくる事も面白い化学反応になります。

例えば『センセイオフィス』という新しい形の職員室はスイスの家具メーカー・ヴィトラと協働で作りました。生徒が入りづらく、先生が働きづらい職員室の刷新が目的です。また生徒たちの出口という部分も考えていく事も重要です。偏差値ではなく高校三年間で町で学んだ実践値や経験値でいかにして受験にも勝負できるか。そのために無料の町営塾『HAN-KOH』をつくり、AO・推薦入試の指導も積極的に始めました。

都内の高校と違い学力に幅がありますが、偏差値は高くはない津和野高校から実際に有名大学へ合格していく実績が先生たちの意識や世間の見方どんどん変えていきました。

 

安心して失敗できる環境づくり

「必死に違いなさい」

他人と違うことを恐れて自分の想いにフタをしてしまう子たちを何人も見てきました。常識を疑えるひと。疑うことに価値があるし、そこから出てきた違いこそ意味を持つ時代だと思います。これまでの教育自体どうしても管理しやすいようにスタンダード枠を作り、標準化させてしまう傾向にありました。その逆の方向へ教育を持っていかないといけないと思います。先生も生徒も、もっともっとカラフルでいいんです。

 

〝偏差値〟では測れない人間力

津和野高等学校二年生 池本次朗くん
あどけない雰囲気だが、彼が高校生であることを忘れてしまうほどしっかりとした考えと行動力。
彼の所属するグローカルラボも〝つかみどころがない〟部活とのことだが、彼自身も「優秀」や「賢い」という言葉ではまとめられない。
それが偏差値では測れない、津和野が育む〝人間力〟なのか。

 

父親の書斎で読んだ、
とある〝本〟がきっかけに

僕はさいたま市出身で、もともとはそのまま東京の高校に進学する予定でした。

しかし、中学校での勉強・部活・遊びと決まったサイクルの学校生活があまり楽しくなかったことと、都心の学校ほど偏差値で判断される感じがあり、高校の進路に悩んでいました。もともと本が好きで、ある日父の書斎で『里山資本主義』を読んではじめて地方という存在を知りました。地方が様々な問題を抱えていることもこの本で知り、同時に面白そうだなと思い始めました。

 

津和野町への移住を決めたきっかけ

進学について両親に相談すると、島根県のことを教えてもらい、ちょうど東京で説明会があるということで参加しました。最初は高校魅力化ですでに有名だった隠岐島前高校目当てで参加したんですが、その日にたまたま津和野高校の担当の方からすごく熱心に説明をしていただいたんです。そこではじめて津和野町、そしてこの高校を知りました。東京か島根どちらにするかに悩んでいたことに加え、さらに隠岐島前か津和野町という二重の選択で、ギリギリまで悩みました。最終の決め手は、津和野町の人たちの熱さです。説明を受けている時も津和野町に実際見学に来たときもちゃんと僕〝個人〟を見てくれている感じがしました。

 

東京に進学していたら出会えなかった人と
この町では出会える

津和野町での生活では、東京にいた時に感じていたストレスが少ないです。ゆったりとした時間が流れるこの町の生活環境も良く、僕と同じように、津和野町に移住してきた友達も多いです。部活はグローカルラボという、運動部でも文化部でもない地域系部活動という〝つかみどころのない部活〟に入っています。現在部員は二〇名です。地元の方から貸していただいた畑で、野菜を育てています。週末は地域のイベントのお手伝いをしたり、祭りで、自分たちで育てた野菜を使ったお店を出したり、学校の外での活動が多い部活です。特徴は何よりも世代に関わらないつながりや知り合いが増えることです。自分の中で大きな経験になったのが日本科学未来館やGoogleの方々との出会いや、津和野高校との共同プロジェクトやイベントに携われたことです。不思議ですが、きっと東京に進学していたら出会えなかった方とここ津和野町では出会えるんです。

 

将来の夢を決めることこそむしろこわい

将来の夢は全然決まっていません。決まっていないことを悩んでもいないし、一つに決めてしまうことこそむしろこわい気がします。興味のあることに対して積極的に動く事をまずはしっかり続けていきたいです。今興味があることは津和野町に限らず「地域の町おこし」です。あと未来館の『ビジョナリーキャンプ』で学ばせてもらっている『未来のコミュニケーション』。あとは『本が持つメディア性』みたいなことにも興味がありますね。

 

この町では、ちょっと手を伸ばせば、
得られることが多い

この町に移住して良かったことは、自主的にチャレンジすることに対して東京よりも抵抗感が少ないこと。ちょっとしたことでも自分から行動したら、得られることが多いです。それはこの町での環境や人のおかげで、自分のやりたいことに対して、〝常識〟みたいなもので否定せず、むしろ助言をくれたり、人を繋げてくれたり、チャンスをくれたり、そういう大人がこの町にはたくさんいます。

 

子供も大人もまちも〝余白〟が必要

教育魅力化コーディネーター(小中学校)石倉美生さん
教育魅力化コーディネーターってまちの〝編集者〟のように思える。
複雑に絡み合った教育の現場の様々な問題や課題をほぐして、新たな要素を加えながら編んでいく。
このインタビュー中に彼女の口か出て来た〝余白〟という言葉。
自然豊かな津和野の地で彼女自身も本来の〝教育〟のあるべき姿を見つけている。

 

教育魅力化コーディネーターの日々

この仕事の業務は明確に一から十まで決まっていないので、何をするべきかを学校、教育委員会の方々と話し合って決めていきます。

基本的な任務は生徒の一日一日の学習の質をどれだけ高めていけるかです。自分はもともと教員だったので同じ目線になって先生たちのサポートするのが第一の仕事。すごく気持ちが分かるのですが、これからの教育はむしろ総合の時間や地域との連携が大事になっていくのに、特に教科書のない総合の授業の準備や授業以外の連絡は大変で、なかなか注力できないのが先生たちの現状です。コーディネーターとして先生たちのタスクをむやみに増やすのではなく、それは本当に必要なことなのかを整理し、先生にも余白を作ってあげたい。この余白こそ教育の現場には大事なことです。だって生徒達も追われている大人を見ていてもつまらないですもんね。

 

後悔しない生き方を……
津和野行きを決めた三週間

富山生まれで、埼玉で教員を七年、去年四月から津和野町にやってきました。島根県には何のゆかりもなく、今住んでいることは自分でも不思議なくらいです。埼玉での教員時代、このままずっと教員を続けていくことになんとなく悩んでいた頃、参加したマラソン大会で重度の熱中症になってしまい、生死をさまよう経験をしました。人はいつでも死んじゃうのだと身を以て経験して以来、生徒にも子供の頃から少しでも多くの人や価値観と出会わせてあげたいと考えるようになりました。その理由は世の中に色々な人や価値観があるのにも関わらず、社会に出るまでに出会える価値観って親と先生を含め一握り。ほとんどの人は何となく決まったレールで社会に出て、そこからようやく自分の考えや価値観について路頭に迷う。もっと子供の時から色々な大人や考えと学校以外でつないであげる仕事があればと考え始めました。

当時は富山に帰って自分自身でそんな仕事を立ち上げようと思い、最初はカフェを作ろうと、教員を続けながら専門学校でカフェについて学ぶなど模索してました。同時期、たまたまフェイスブックで中村純二さんの記事をみて、津和野町の教育魅力化コーディネーターの仕事を知りました。中村さんが登壇する東京のイベントに参加してみると、まさに自分がやりたい職業があったんです。そのイベント会場にいたプロジェクト担当の方からも、「このプロジェクトは決して島根だけで止めるつもりはないし、今後ご自身の富山にもこのエッセンスを持ち帰ってもいいのでは?」と言われ腑に落ちました。自分でも驚きですが、中村さんの記事を見て、三週間後にはもう津和野町に行くことになっていました。

 

魅力化コーディネーターって
町の仲人みたい

津和野町での生活を通して自分の心境にも変化を感じます。これまでの自分は、できるだけ早くたくさんやろうというようなファストな生き方をしていましたが、ここでは急がず必要なことをじっくり考えることが増えました。教育も本来こうやってゆっくりじっくり育んでいくものだと改めて感じます。自分たちコーディネーターは何から何まで足し算をしていくのではなく、仲人のように必要かどうかを吟味して繋げていくべきだと思います。人って詰め込んでも結局は意味ないし、仲人と同じでコーディネーターもルールがない分、私自身も余白を持ち、じっくり考え整理をする時間を常に持つ事が大事だと思います。

 

森の園内ならではの身体と心の育て方

山のこども園『うしのしっぽ』園長 京村まゆみさん
津和野町の市街地から奥深い細い山道を行く。
取材当日はあいにくの大雨。しかし園児たちにとっては最高の遊び道具だ。
足場の悪い山の斜面を滑り台のようにはしゃぐ。
一見「危ない!」と手を出してしまいそうだが、全く平気。
森の園内からは子供達も大人達からも常に笑い声が絶えない。
今から朝礼の時間。場所は室内の教室ではなく、山の中にみんな集合!

 

地域の学校廃校から自らの保育園の開園へ

元々島根県松江市で保育士をしていて、この津和野町左鐙には結婚を機に来ました。

この集落の左鐙小学校に自分の子供を通わせていたのですが、教育環境がとても良かったんです。しかしこの小学校の生徒数もついに一〇人切っててしまい廃校に追い込まれました。私を含むこの地区のお母さんたちがなんとか小学校を守ろうと『左鐙の将来を考える会』を結成し、学校をPRしたり、移住者を増やす試みをしていたのですが、教育委員会や行政の壁が厚く、私はそのために議員に立候補し町議員にもなりました。ですが残念ながら左鐙小学校は統合へ。

このことが転機となり、これまで農業体験授業で使われることはあった旦那が営む牧場を、もっと日常的に、さらにもっと低年齢の子供達の成長から携わっていきたいと、二〇一三年『山のこども園 うしのしっぽ』を開園しました。開園時は無認可だったのですが、国の制度が変わり、NPO法人や一般法人でも保育園の運営が可能となり、さらに以前は県の認可が必要でしたが、『地域型小規模保育』という形で市町村の認可で運営できるようになりました。

 

移住してわざわざ山奥に通わせたくなる魅力

現在一七名の園児の中で三分の二は移住者で、田舎ならではの保育を求めてわざわざこの幼稚園を選んでいただいてます。ここではわざわざ特別な設備を用意しなくとも、川も山もあり身体も心も育つ素材が転がっています。あとは〝自分で考え、自分で決めて、自分で責任をもてる子供〟を育てていきたいので、朝礼でも今日はどこ行って何をするかを自分たちで話し合いながら決めます。

さらに園内でのルールももちろん全てではないですができる限り子供たちで作っていきます。

保育士である我々がルールを決めるのは簡単ですが、園児たちの生活の中で自分たちでルールを決めれそうなチャンスを逃さずキャッチし問いかけることも保育士の大事な仕事です。

 

園内での様々な生活体験を学びと成長に

年長さんは週に一回クッキングの時間があり、かまどを使い、薪で一から火をおこし、みんなのご飯と味噌汁を作ります。マッチをすったり、お米を研いだり、失敗することはあるけど、何回も繰り返しながら、友達と声を掛合い、学んでいきます。さらにそれを食べる下の子たちからは「ありがとう! 美味しい」と言われ自己肯定感も備わります。このクッキングは生活体験で学べることがたくさんあって、卒園式には、お父さんお母さんを招待して『山小屋食堂』という名前でご飯と味噌汁を振る舞います。

子供たちを野放しにしているのでは? というイメージがありますが、管理的な園よりよっぽど考える力も身体も鍛えられます。今全国的には幼児の身体能力が危機的状況だと問題になっている中で、うちの園児たちは体幹も脚力も反射神経もしっかりしています。

 

『うしのしっぽ』がこれからできること

我々の園での保育を求めている親御さんは全国にもっといると思うんですが、園にも限界があるので、その他の保育園と連携し、森を活用した保育の魅力を広げていきたいです。また、卒園後管理的な小学校に入った故に馴染めない子が実際にいて、そういう子たちの居場所もしっかりサポートしてあげたいです。最近では月に一回廃校になった左鐙小学校を使い、卒園生たちを誘ってご飯を一緒に食べたりして引き続き交流の機会を作っています。

 

文 ・編集 : 田中 佑典 写真 : ミネシンゴ

                   

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