地域に新しい事業と起業家を生み出すキーマン

広島県三次市 小川 治孝

衰退する地域の中で「受け継いだもの」

大正時代に自転車店として創業した有限会社小川モータースは、時代とともに自動車整備・販売、燃料販売と業務を拡張してきた。一九七三年にこの家の長男として生まれた小川治孝さんは、「料理人になりたい」と夢見ていたが、心の底では「いつか家業を継がねばならない」と思っていたという。

大学卒業後は親の勧めで自動車ディーラーに就職。二年間の修業を経て甲奴へ戻り、二〇〇七年九月に同社の四代目社長となる。当時の小川さんは、休みのたびに広島市内へ遊びに出ていた。「甲奴から出たい気持ちばかり。衰退する地域の中で、家業も間違いなく縮小していくと悲観していました」と当時を振り返る。

社長就任の翌年、「私は一度死んだ」というほどの事件が起きた。経営するガソリンスタンドのタンクが老朽化により破損。大量のガソリンが周辺に流れ出したのだ。報道陣が押しかけ大騒動になるも、地域の人たちは誰一人小川さんを責めないばかりか「頑張れ」と応援してくれた。その時、ずっと灰色に見えていたまちが一変。「わが社は創業以来、地域の皆さんに育てられ、支えてもらってきた。四代目の私はそれを受け継いでいるんだ」と痛感した。

小さな事業の積み重ねが、まちの未来を彩る

小川さんは変わった。「甲奴で生きていく」と誓い、「どうすれば地域の役に立てるか」を日々考えた。改めてまちを見つめると、「甲奴の魅力は自然、そして『人』である」と気付いた。進学や就職で甲奴を離れる若者たちに、無責任に「帰ってこい」とは言えないが、彼らが「帰ってきたいまち」にすることはできる。大企業を誘致するのではなく、いくつもの小さな事業を立ち上げ、起業家たちと雇用を生み出し、それらを箱のように積み重ねていきたいと思った。そこから生まれたものの一つが「カーシャンプー事業」だ。小川さんは事業を軌道に乗せた後、新規起業者に経営を譲った。その後、都市部の友人と耕作放棄地で米作りに挑戦した経験をヒントに、企業が農家と契約し栽培・収穫した米を販促品などに活用する「スマイル10アール事業」が誕生。地元農家の安定経営の他、関係人口づくりにも寄与している。小川さんは広島県商工会青年部連合会会長に就任、人脈はさらに広がっていった。

地域活性化は、ゆるやかな関係性で

甲奴の将来を憂い悶々としていた、後輩で市職員の永井宏明さんと語り合ううちに立ち上がったのが、地域活性化を担う中間支援組織「NPO法人GANBO」。協調性と主体性を持ちつつ、根底にはいつもワクワク感を追い求める組織。課題や人に向き合うのではなく、寄り添うスタンスで、自由に活動している。夏祭りや農業体験など、広がっていくさまざまな事業展開を「この指とまれ方式」と形容する小川さん。適材適所で、やりたい人、得意な人が事業を仕掛けていくスタイルに惹かれ、起業したり、Uターン・Iターンしたりした仲間が集まっている。

「恩は下に返す」が甲奴人の心

小川さんは、甲奴のまちが、だんだん彩りを持ってきたと実感しているという。辛かった頃、小川さんが慕う地域の先輩「かっちゃん」に言われた「上に返すな、下へ返せ」という言葉は、今も深く心に刻まれている。「いつでもGANBOを活用してもらいたい。一人でも多くのプレーヤーが甲奴で起業すれば、甲奴がさらに彩られるから」

かつて料理人になりたかった少年はいま、先祖から預かった地域という大きな皿の上で、仲間という多様なスパイスを手に、素晴らしい未来を作り出している。

柔軟な「小川流」で次々と事業を立ち上げ、
故郷を「創生と循環のまちづくり」へ

GANBOの組織体制は「官民一体」。地域住民や行政と連携し、「仕事としての農業」をもって美しい里山を守りながら、地域再生を目指す。

甲奴の活性化の原動力は「農業」だと考える小川さん。新事業の運営のため、本業の小川モータースとは別に「小川商店」を立ち上げて、「スマイル10アール」という事業を始めた。この事業は、企業が10アールの田んぼのオーナーとなり、そこでできた米を、オリジナルのノベルティとして活用するもの。農家の安定収入につながり、また米の梱包作業という新たな仕事も生みだした。

さらに農業分野で、ブルーベリー栽培にも着手。迅速な資金調達が必要なために、小川モータースの事業として展開しているが、カーシャンプー事業のように、こちらも軌道に乗せたら後継者に譲りたいと考えている。

他にも、豊かな水資源を活用したイワナ養殖を個人の事業として行なっているほか、広島県北部の地場産業である養蜂も、GANBOメンバーの力を借りながら事業化に向けて走り始めている。

GANBOで、小川商店で、個人で。解決すべき課題の内容や予算規模によって最適な方法を選ぶ柔軟な「小川流」の動きが、甲奴を「創生と循環のまちづくり」へ導いている。そして、そこにはいつも小川さんの「この指とまれ」の掛け声に集まった仲間がいる。

GANBOメンバーが「別荘」と呼ぶ拠点は、二〇一七年に完成。建物のデザインから家具の選定まで全てを受け持ったのが、インテリアマツヤマ社長、松山和雄さんだ。

松山さんは福岡の大学を卒業後、建築業や不動産業に従事し、愛媛や東京、広島で勤務。ハードな毎日に体調を崩して甲奴にUターンするも、「真っ暗で面白くない。夢も希望もないまち」と思っていたという。翌年から三次広域商工会青年部に所属し、小川さんたち地域の先輩経営者と徐々につながっていく。

現在はGANBOの理事を務めるが、「これをしなければ」という思いはない。

「GANBOメンバーであることにとらわれてはいません。でも、何かをするときには、とても心強いバックボーンです」

市道の草刈りなど社会貢献事業を、時間があればやる。そのスタンスはずっと変わらないという。

「私のポリシーは『田舎に住んでいるけれど、田舎らしく生きなくていい』。それが腑に落ちたとき、甲奴でいろんなことができるようになったんです」という言葉は、多くの人の心に響きそうだ。

 

文/門田聖子 写真/堀行丈治

                   

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