TURNS

土地の機微を飲み込んで、
彼は「飛騨の人」になった。
【TURNS41 多拠点居住と新しい働き方】白石達史(岐阜県飛騨市)

「拠点を増やす」とは、新しい土地に根を張るということ。多くの人の不安を他所に、白石さんは「知らないからこそ、僕はその土地のやり方を尊重してきただけ」と語る。二つの地方に暮らす彼は、街への溶け込み方を知っていた。

profile:白石達史

岐阜県・飛騨エリアを中心に活動する「型に捉われない編集者」。アメリカ・アリゾナ州の国立公園 のトレイルワーカーなど海外を放浪する生活の後、世界中から人々が訪れるガイドツアー会社を経て独立。現在は、飛騨高山ジャ ズフェスティバルを主催する「音楽会社JAM」、古材と古道具のお店「ReBuilding Center JAPAN」の運営に携わり、飛騨と諏訪の二拠点生活を続けている。2020年、古民家移築の会社「M&Company」を設立。


みんなに好かれる理想の移住者?

少し歩けば「久しぶりね!」。角を曲がれば「これな、持っていき」。まるで葛飾の両さんか、柴又の寅さんか。岐阜の飛騨古川、長野の諏訪と二つの土地を行き来する白石さんだが、とりわけ飛騨古川の町での彼の人気は驚くべきもの。

「白石くんとは年こそ離れているけど、気持ちは遠い感じがしないんだよ。彼が知らない人を連れてきても、彼が付き合ってるなら信頼できるね」そう話す六十八歳の町の車屋・森本さんに、白石さんは笑顔で返す。

「飛騨に来て十年になるけど、もりかっちゃん(森本さん)はこっちで一番話が合うんじゃないかな。そういえば僕が車を買いたいって相談したら、なぜか金色のプジョーを勝手に用意されてて……なつかしいですね」。気の知れた会話からも、町の人たちから白石さんへの信頼がにじみ出ている。

「もりかっちゃんのやっているアルプス自動車は、本当に親切で。僕づてに何人もお世話をしてもらった」。オーナーの森本さんは「田舎だから閉鎖的になりがちだけどさ。白石くんは新しいものを入れながら、古いものも大事にしてくれる」と語る

白石さんは、岐阜県の「飛騨古川」という町に暮らしながらイベントや冊子のとりまとめを仕事にする、広い意味での「町の編集者」だ。月に数回は、もう1つの仕事のために長野県諏訪の町に滞在する。数年前にはついに、山合いの集落で解体目前だった飛騨の古民家をゆずり受け、自宅に。セルフリノベーションを施した古民家に今も手を加えながら、飛騨の暮らしを満喫している。

「友達が来たら必ず連れてくるのが、『壱之町珈琲店』。最初、もりかっちゃんご夫婦がしてるお店だって知らなくて」。店に立つ森本純子さんは「飛騨に越してきてすぐ通い始めてくれてね。ウチでお泊まりも晩酌もしたし、お家に遊びに行かせてもらったり」と振り返る

ここまで聞くと、あまりに羨ましい光景に目を細める人もいるだろう。移り住んだ町の人からこれだけ愛されるなんて、移住者としてこれ以上の幸せがあるだろうか。その笑顔と人柄から溢れ出る先天的な「愛され体質」について本人に指摘した。誰もがあなたみたいな移住者にはなれないのでは?

すると彼は緩やかに首を横にふる。「いやいや。十年前にここに来た時、僕は生意気な移住者そのものだったと思いますよ。町のやり方には無駄が多いとも思ってたし、極論を言えば、『革命を起こしてやる』くらいの勢いだった」

 

小さな火を灯し続けることの凄さ

地方移住をする多くの人たちには、少なからず「地元の人々と違う視野を持っている」という自負はあるのではないか。「外からの視点で変化を起こそう」という思惑も。

十年前、白石さんは知人が起業したガイドツアー会社を手伝うべく飛騨高山にやって来た。縁もゆかりもない土地だったが、「この町は、暮らす人々の美意識が高いんです。だから美しい場所がたくさんある。鯉の泳ぐ水路も、裏通りにあるお寺も、観光のための美しさじゃない」と、町に愛着を持った。その一方で、他の移住者たちの例に漏れず、一握りの野心も持ち合わせていた。

町を歩いていると、白石さんの元にたくさんの人が集まってくる。雑談の合間に何か手渡されたので話を聞くと、「飛騨の語り部をされている鮎飛さんという方。彼は学校に行って飛騨の歴史を伝えたりしているんですが…お寺の歴史をまとめた自家製本をもらいました」

彼に関していえば、「異なる視野」に自信を持つだけの一風変わった暮らしをして来たのも事実。大学を卒業して海外を放浪した後、カンボジアで日本語教師に。それからアリゾナの国立公園でトレイルワーカー(環境整備係)の仕事に就く。その後も熊本や東京で働いたりと、土地を転々としながら暮らしていた。

「飛騨に越して来てすぐの時は、東京の有名人を呼んでトークショーを開いたり、音楽のライブイベントを開いたりと、いろいろ企画しました」。しかし、次第にその考えに変化が訪れる。「自分のやってたイベントって、自分がいなくなったらもう開催されないだろうなって。でも、一人に頼り切ったイベントでは意味がない。町にとっては継続性のない、とてもちっぽけなものだったと、少しずつわかってしまって」

「『井之廣製菓舗』さんは110年以上続く味噌せんべい屋さん。ガイド時代、よくおせんべいを買わせてもらって」店主の井之丸さんは「その時はオフィスが向かいで、外国の方が来られたらすぐ助けを呼んでね。おかげで、外国人観光客と話すのが怖くなくなったわ」と感謝する

自らが企画するイベントの数は減っていったが、白石さんと町の関わりが断たれることはなかった。新たな催しを起こすよりも前から、彼は町の人々に誘われた集まりに必ず顔を出していた。

「暮らす町のことも、住む集落のことも何も知らなかったから。呼ばれた場所に全部行っていました。続けるうちに、みなさん本当に親身になってくれて」。草刈りや町のお祭り、青年部など、町に根付いた集まりは多く、それらは何十年と続いていく。

「お好み焼きが名物の居酒屋『えん』の高原さんは、広島からこっちに移住してきたんですよ。しょっちゅう来ちゃうんですよね」。果実酒に地酒に、スイスイと杯を開けていく白石さん。「どこでも暮らせるし働けると思っている分、今いる場所では本気で楽しまないと。だから本気で飲むんですよ」

「僕らとまるで時間軸が違う。十年暮らしてみて、小さな灯火をともし続けることのすごさが、ようやくわかるようになってきた」と白石さん。知らないからこそ、その土地のやり方を尊重する。メールで済むはずの回覧板は、わざわざ村の誰かが届けに行くことで高齢者の安否確認になる。集会の回数を重ねるのも、なんども顔を合わせて話をすることで、理屈ではない部分の合意形成が生まれていくからだ。

ローカルルールといえばそれまでだが、土地に根付いたいくつもの「当たり前」を飲み込むことで、白石さんは飛騨に暮らす人々の機微を汲み取っていった。

「市役所の観光課長・北村さんは仕事でもお世話になっていて。飛騨市役所のいいところはこんな風に気軽に入って立ち話できるオープンさなんですよね」。北村さんは「彼は本当に裏表のない男だから。これからもよろしくね」と声をかける

飛騨の町に溶け込んでいく白石さんの姿を見てか、何年か経つと本人の元に多くの移住相談が集まるようになっていった。

「でも、『どうやって溶け込んだんですか?』と聞かれても難しいんですよ。そのとき当たり前に思いつくことをやっていっただけだから。誘われた集まりには顔を出す、何か家でイベントをする時は向こう三軒両隣に挨拶をしにいく。あとはひたすら町へ飲みに出てましたね。酒場でもたくさんの友達ができました」。そうして信頼を積み重ねた彼は、ついに家までゆずり受けることに。

「結婚して引越しを考えていた時、解体されそうになっている古民家があると教えてもらって」。一目見て気に入った白石さんは、『受け継ぎたいです』と持ち主の方に伝える。「そうしたら、『潰すのもお金がかかると思ってたところ。あげるよ』と言っていただいて」。受け継いだ古民家は自分たちの手で改装。家づくりの最中にも、多くの町の人が手伝いに訪れた。「みんな、遊びにきたら『あそこの壁は俺が塗った』なんて自慢していくんですよ」。こうして飛騨の町に、自分の手で作り育てる居場所を手に入れた。

もらい受けた古民家を、夫婦二人でリノベーション。町の人々にも手伝ってもらいながら、少しずつ理想形へと近づけている。「二人が一番長くいる場所はキッチンだと思います。料理しながらお客さんとも話せるように、広めに」という美しい台所の風景

 

諏訪で営む、もう一つの暮らし

「家をもらう」以外にも、白石さんは飛騨に越してきた当時から新しい生活の形を実践してきた。移住して最初の住まいは、飛騨古川のシェアハウス。同僚との同居だったが、当時は「シェア」の考え方はあまり広まっておらず、役所には「居候」だと伝えてようやく受理してもらえた。「Iターン」という言葉も、飛騨に移り住んだ当時は一般的ではなかった。それから十年が経った今、彼は「実は、飛騨に住んでいなくたって仕事はできるんですよね」と語る。

「ほとんどの仕事はリモートでできる。特別に顔を合わせる必要がある時だけ、その土地に訪ねていけばいい。今は特に、たくさんの人がそのことに気づいているでしょう。だから僕だって、本当は、ずっと飛騨にいないといけないわけじゃないんです」。現に彼は、もう一つの暮らしの場を長野の諏訪に見つけていた。

長野県諏訪市にある「リビルディングセンタージャパン」は、白石さんが2拠点生活をはじめるきっかけとなったお店。解体現場からレスキューされた古材や古道具の販売、多様なイベントが開催されている。「飛騨と諏訪との2拠点ができているのも、リビセンが好きだから」

「古くからの友人が、諏訪で『リビルディングセンタージャパン』という古材と古道具のお店を運営していて。二年ほど前に『一緒に働かない?』と声をかけてもらったんです」。それから、ディレクターとして店舗運営やイベントに関わるように。

人の縁に愛されて、新たなステージへと軽やかに歩んでいく白石さんは、諏訪でも、自分なりの居場所と「いる理由」を見つけていく。

「豪雪地帯の飛騨で暮らしていると、冬の雪が外に積もっていくのをずっと眺めることになります。すると気が滅入ってくる。そんな時に諏訪にいくと、一緒に働くメンバーの陽気さに元気をもらって、『自分も頑張ろう』と思える。でも数日働いて飛騨に戻るともう、ホームに帰ってきたみたいにホッとしてる自分もいるんです」。

諏訪のバー「Eight」。「諏訪の社宅からも近いから、仕事終わりに通っています。深酒をするわけじゃなく、ワイン1杯飲みながら地元の方々とお話しして。諏訪で最初に顔と名前を覚えてもらったお店なんです」

気候も、人も、店も、全てが異なる二つの町。行き来することが、それぞれの町との健やかな付き合いを生む。こうして新しい土地で受け入れられるのも、白石さん自身がその土地にどっぷりと入り込み、愛そうとするからに他ならない。

「諏訪はやっぱり、飛騨とはちょっと文化が違うんですよ。お店の感じも、東京からのアクセスもいいからか個性的で気持ちのいいお店が多い。夜遅くまで開く店も。諏訪でもお世話になってる店がたくさんできました」。白石さんと話していると、「店に通う」というのは頻度の問題ではないのだとわかる。「たまにしか来れない分、毎回『次は何週間後に来ますね』って伝えて帰ったり。自分の足でいろんな場所に行って、自分の好きなお店をたくさん見つけられました」。

「マスヤゲストハウス」とは、オープン前からのお付き合い。「オーナーとは古い友人で。はじめて諏訪に来たのは、ここのリノベーションを手伝いに来た時だったんですよ。いつも元気をもらっている場所です」

町への誇りを声高に叫ぶのとも、ないものねだりで土地を離れるのとも違う。「『隣の芝生は青い。だから行ってみた』くらいの感じなんでしょうね」。

でも、それは決して根を張ってないって訳ではない。「誰かにプロデュースされた人生ではなく、自分の人生は自分で作りたいと思っています」。人に、土地に、呼ばれ続けただけではない。自分の居たいと思える場所を選び続けた人物の言葉だ。

 

飛騨古川に十年。その理由

十年前には自身の活動を「ちっぽけ」だと感じていた白石さんも、二〇一八年からは友人たちと会社を立ち上げ、「飛騨高山ジャズフェスティバル」を主催するようになった。県外のイベント会社などはあえて入れず、地元の人と自分たちのみで、町の楽しみを増やしつつ、お金もほぼ全て地元に落ちる。

白石さんが友人とともに主催する「飛騨高山ジャズフェスティバル」。地元の人が楽しめる「適切な規模」を意識しながら、地元のお店の出店や、飛騨の地域通貨「さるぼぼコイン」の導入などたくさんの試みを仕込んでいる

「飛騨地域は文化レベルも高いし、住む人の美意識もある。でも音楽を楽しむ体験に関しては、名古屋あたりまで足を運ばないと難しいんです。フェスをやるにも、あんまり騒がしい人たちが町に集まると、地元の人が楽しみづらくなる。適切な規模で、地元のみんなだけを主役に続けていけたらと思います」。あくまで、自分たちの暮らす町を少しだけよくするため。かつてのようなギラついた眼差しの代わりに、町全体を見渡す広い視野を得ていた。

そんな彼とともに暮らす妻の実果さんもまた、仕事で地方を行き来する。通訳ガイドとして働く彼女は飛騨を中心に、金沢、京都、長野などさまざまな土地に、旅人を案内するべく出かけていく。「実果のほうが、多拠点なんじゃないかなと思います」。フットワークの軽やかな二人だからこそ、複数拠点の生活も実現できている。

妻の実果さんは、国家資格を持つ通訳ガイドとして働く。「現地の人と訪日の旅行者の橋渡しをするのが仕事です。絶対に、現地の人を見世物にしないよう、お互いにコミュニケーションが取れるように」という配慮の深さも、町の人々から愛される理由に違いない

「正直、どこでも暮らせるなとは思ってるんです。妻とは『暖かい国で暮らしてみたいね』と話すくらい。二拠点ですらなく、n拠点で全然いい。」それでも飛騨を十年、離れないのはなぜか。「この町の人たちと、十年で築いた関係性があるから。人のおかげですね。よっぽどの理由がないと、離れないんじゃないかな」。そう一息に語ると、時計を気にし始めた白石さん。

「これから、若社(青年部)の集まりがあって。終わったら連絡するから、取材チームも一緒に飲みに行きましょう」そう行ってそそくさと出かけていく。こうして白石さんは、人を巻き込みながら町に溶けていくのだった。

文:乾 隼人 写真:小林 直博
※本記事は、本誌(vol.41 2020年6月号)に掲載しております