【福島県浪江町】見えない壁を乗り越えて、浪江町から世界を広げていく

 

福島県浪江町は、福島県浜通り(沿岸部)の北部に位置している。かつては21,000人が暮らしていたが、2011年の東日本大震災と原発事故によって、すべての町民が避難を余儀なくされた。震災から6年が経った2017年には一部地域の避難指示が解除され、ゆるやかに町民の帰還がはじまり、現在では(2022年6月末時点)1,888人が暮らしている。

まだまだ帰還は道半ばといったところだが、興味深いのが、20代や30代の移住者が増えていること。なんと、町民の約3分の1が、震災当時は浪江町に住んでいなかった移住者なのだという。そのなかには、浪江町で起業し、浪江町でビジネスを始めたくて移住した人もいる。2021年には浪江町を含む福島県浜通り地域で若い起業家を支援する取り組み「HAMADOORIフェニックスプロジェクト」もスタートした。

その第1期として採択されたのが、野地雄太さんだ。福島市で生まれ育った野地さんは、2022年に浪江町に移住し、株式会社Beyond Labを設立。中高生向け留学体験プログラム「Beyond Camp」をはじめとした教育事業を行っている。

中学時代に震災を経験し、アメリカ留学などを経て福島に戻ってきた野地さんに、浪江町ではじめた事業と暮らしについて聞いた。

 

発信側になって自覚した地元への愛

福島市生まれ、福島市育ちの野地さん。幼少期は「どちらかといえば、シャイな感じ」の少年で、近所の山や川で友達と探検したり、釣りを楽しんだりしていた。

そんな野地さんの人生が動いたのは中学3年生の時。ちょうど、その日は卒業式だった。式が終わったあと、家族で中華料理屋に行き、お祝いの食卓を囲んでいたのだという。ひととおり料理と会話を楽しみ、最後に出されたデザートの杏仁豆腐を食べようとした、まさにその時だった。

「地下のお店だったんですけど、もう、つぶれてくるんじゃないかと……。立てないほどでした。今でもまだ、その場所には行けないんです。何か思い出す気がして」

その後、高校に進学すると、学業と部活動(弓道部)に励む傍ら、校内で立ち上がった福島の農業を復興するプロジェクトに参加。桃農家を訪ねて農作業を手伝い、その様子をSNSで発信し、桃のおいしい食べ方や生産者の想いなどを人々に届けた。収穫の際には、地元の小学生に向けて福島の魅力を知ってもらうワークショップを行ったり、都市部の企業とコラボしてお菓子の商品開発につなげたりもした。


復興プロジェクトに関わっていた高校時代。左から2番目が野地さん(野地雄太さん提供)

そんなふうに高校時代から福島の復興に参加してきた野地さんだが、プロジェクトに参加した当初は、それほど強い想いがあったわけではなかったという。高校生活を充実させたい、勉強と部活だけではなく何か人と違うことをしてみたい、それくらいの気持ちだった。しかし、地域の復興のために私財を投げ打って尽力している大人たちを見るうちに、野地さんの想いも次第に熱を帯びていった。

「地元の方々がかっこよく見えたんです。みんな、自分ができることをやっていた。だったら自分たちにも、高校生だからこそできることがあるんじゃないかと思って。自己満足で終わるのではなく、ちゃんと感謝されること、役に立つことをやりたい気持ちが強くなっていきました」

そうした経験を通して、地元への愛を自覚するようになったという。

「中学までは地元に対して、好きとか嫌いとかいう気持ちはありませんでした。でも、福島のことを発信する側になったことで見えてくるものがあったんです。地元に対して熱量を持って関わっている大人に出会う機会もたくさんあり、だんだんと、自分ができることで地元に貢献したい気持ちが芽生えてきました」

 

アメリカ留学。さまざまな世界があることを知れば、常識から自由になれる

高校卒業後はアメリカに留学。2年間をミズーリ州のリベラルアーツカレッジで過ごしたあと、名門・ミネソタ大学に編入。社会学を専攻し、まちづくりや都市開発について研究する都市社会学に興味を持った。在学中には2度休学し、最初の休学時にはベトナムやインドネシアでインターンをしたり、カンボジア、バングラデシュ、ルワンダなどを訪ねたりして、地域のビジネスや国際協力の現場を視察した。

世界各地を渡り歩いたことで、野地さんは「違いを正すのではなく、お互いに違いを認め合える社会の方が生きやすいのではないか」と考えるようになっていった。そこで、日本に住む外国人と海外に興味がある日本人とをつなぎ、交流会を開催するようになった。

「グローバルランチ」と名付けられたその会は、外国人と一緒にその国の料理が食べられる飲食店に行き、ランチをしながら会話を楽しむ、ささやかな交流会だ。それがすごく楽しかったという。

「自分がいた環境では気づけなかったことや、同じだと思っていた価値観にも微妙な違いがあることに気づきました。たくさん発見があったんです。そういう体験をすると、『こうあるべき』という常識から自由になれると思うんです。世界をひとつしか知らなければそこでしか生きられないけれど、他にもいろんな世界がある、ということを知れば、それだけでも少し気が楽になるかもしれない」


グローバルランチの様子(野地雄太さん提供)

その後、さらに発展させたイベントとして高田馬場や新大久保、蕨(埼玉県)など、日本にある外国人コミュニティを旅する「グローバルマイクロツアー」を友人と企画。在日外国人にそれぞれの文化や宗教、生活についてのヒアリングを行い、日本にいながら海外の文化を感じられ、学べる機会を設けた。

 

浪江の人々に感化され、浪江にコミットしようと思った

2度目の休学を起業準備期間にあて、インバウンド向けのサービスを作ろうとしていたところ、世界はコロナ禍に突入。企画自体の考え直しを迫られた上、復学しても渡米できずにオンラインでの授業が続いた。世界的に長引くコロナ禍やアメリカの状況などを鑑みて、野地さんは日本で仕事を探すことに決めた。起業家育成プログラム「VENTURE FOR JAPAN」(宮城県女川町を拠点とする特定非営利活動法人アスヘノキボウが運営する、起業を目指す若者と地域企業をマッチングさせるプログラム)を利用して相馬市のベンチャー企業に就職し、1年間働いたあと、自ら考案した中高生向けの留学体験プログラムがフェニックスプロジェクトに採択されたことで、株式会社Beyond Labを設立。浪江町への移住を決めた。

浪江町を選んだのは、休学中に行ったスタディツアーで浪江町の魅力に惹かれていたからだ。

「浪江は避難期間が長かったこともあり、住民の帰還はまだそれほど進んでいません。それでも浪江に思い入れを持って、浪江で事業や産業を起こす人たちがいる。そういった人たちの熱量を感じることで、自分にとって浪江は身近なまちになりました。だから、住所を浪江に移して、浪江で起業することで、より浪江にコミットしようと思ったんです」

浪江町の人々に感化され、浪江町に熱い思いを持つようになった一方で、野地さんには、自身のビジネスを冷静に見つめて進めようとする一面もある。

「このエリアで起業することで手厚い支援が受けられるし、より伸び代がある地域で事業をやりたかったんです。それに、いわき市や郡山市のような地域よりも、浪江で起業した方が、インパクトが大きいと思うんです」

ある意味では、野地さんは、事業のために戦略的に浪江町を選んだとも言えるだろう。冷静と情熱のあいだで始まったビジネスには、「Beyond Camp」という名前が付けられた。

 

Beyond Camp 見えない壁を越えて

Beyond Campは、浪江町内の宿泊施設を利用して行われる3日間の「留学しない留学体験」。普段は接することの少ない多国籍な仲間と対話し、協働することで、自身の文化を客観視して固定観念を外す原体験を得たり、常識にとらわれず主体的に選択できるマインドなどを養ったりすることを目的とした教育プログラムだ。

「Beyond」という単語には「~を越えて」という意味がある。野地さんによると、「言語や文化、先入観という見えない壁を越え、子どもたちが外国人と対話しながら世界を広げるきっかけになるように」との願いを込めたという。

第1回目の開催は、この4月から5月にかけて行われた。初回ということもあり、参加者がそれほどたくさんいたわけではなかったが、ポジティブな反応は得られた。


第1回「Beyond Camp」の様子(野地雄太さん提供)

「外国人と話すハードルが低くなったとか、海外への興味がより強まって英語をもっと勉強したいと思ったとか、そういった声がありました。何よりも、3日間を楽しんでもらえたのがよかったです。異文化に触れ、英語でコミュニケーションを取り、自分の常識をアップデートさせる目的は達成できたと思っています」

今後も定期的にBeyond Campを行う一方で、キャンプ以外でも異文化交流ができる場を創出し、より日常的に世界を感じられる取り組みをする予定だという。また、行政や学校との連携を深め、事業を拡大することを目指している。

 

課題のなかから見えてきた希望


浪江町の請戸漁港。周辺海域で獲れたヒラメやカレイなどは「常磐もの」と呼ばれ、築地などで高値で取引されていた

さて、野地さんがどんな想いを持って浪江町に移住し、どんな事業を始めたかについては、だいたいおわかりいただけたと思う。では、浪江町での生活面はどうなのだろうか?

「意外と便利、というのが率直な感想です。温泉もあるし、スポーツ施設もあるし、道の駅でおいしいラーメンも食べられるし、スーパーもある。まだ移住して数ヶ月だけれど、普通に暮らしていけると思います」

野地さんが浪江にスタディツアーに来ていたのは2017年頃。当時は避難指示が解除されたばかりで、まちには「コンビニくらいしかなかった印象だった」という。しかし、少しずつ新しい店や再開する店も増え、なかには夜遅くまで開いている店もある。

もちろん課題はたくさんあるだろう。「復興した」とはまだ言えない。他の市町村には当然あるものがこのまちにはない。住宅も店も不足しているし、インフラ整備も終わってはいない。浪江町のまちづくりはまだ始まったばかりだ。ただ、他の市町村にはないものが、浪江町にはすでにあるのかもしれない。

それを言語化するならば、「希望」のようなものだと言えないだろうか。

「浪江には、バイタリティのある人が多いように感じるんです。そこまでまちが整いきっていないなか、それでもここで暮らしたくて戻ってきたり、移住したりする人がいる。今の浪江には、積極的に何かをやろうとする強い想いを持った人が多いです」

あの日、震災を経験した中学生が10年後にこうして新たなビジネスを起こし、その場として浪江町を選ぶ。そうした若い人材がぽつりぽつりと集まり始めている。こうした現象を「希望」と呼んでも、それほど大袈裟ではないはずだ。

「少しずつ、浪江の楽しみ方がわかってきました」

そう話す野地さんの笑顔を見ていると、震災が残したさまざまな課題も、きっとこれから「越えて」いけるかもしれない、少なくともその芽はたしかに生まれているのだと、そんなふうに思えてくる。


野地雄太(のじ・ゆうた)さんプロフィール

1995年生まれ、福島県福島市出身。米ミネソタ大学 College of Liberal Arts 卒業(社会学専攻)。2016年の米大統領選をきっかけに、多文化共生に関心を持ち、アメリカの都市における難民コミュニティについて研究する。大学卒業後、地方創生を手掛けるベンチャー企業に入社した後、今年の2月に独立し、福島県浪江町で株式会社Beyond Labを創業。代表兼ファシリテーターとして、中高生向けに留学体験プログラムなどを運営している。

文/山田宗太朗 写真/Ban Yutaka

 


〜浪江町からのメッセージ〜

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新しい風が吹くまち

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色とりどりのルーツ、色とりどりの夢が

渾然一体となった浪江町は、日々新しい挑戦が生まれる場所。

新しい出会いを歓迎し、

挑戦者をこころよく受け入れる町として発展してきました。

さまざまな挑戦で彩られたこのまちで

自分らしい生き方をはじめてみませんか?

 

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