移住者たちが働き、支える宿
『LAMP』の下に人が集まる。

長野県上水内郡 LAMP

地域に働きたい場所があれば、移住をする動機になる。
そんな考えを裏付けるかのように、LAMPには
多くの若者が移住して働き、長野県での暮らしを楽しんでいる。
人の集まる店の秘密を、支配人に聞いた。

 

遊ぶ人も、働く人も。
『LAMP』の下に人が集まる

どんなまちにも「人の集まる店」がある。地元の人たちの寄合所のようになっている場合もあれば、その土地に来た旅行者の誰もが立ち寄り、「店での時間を過ごすために、その土地を訪れる」という旅の目的地になるような場所もある。雪深い長野の山間にある、ゲストハウス『LAMP』も間違いなくそのひとつだ。現在のLAMPとして営業して七年。併設する「The Sauna」は、当時まだ日本では珍しかったフィンランド式のサウナとして愛好家たちの注目を集め、現在では「聖地」として全国各地のサウナ好きを呼び寄せるまでに。宿、レストラン、サウナ、それぞれの魅力が伝わるにつれて、県内外でも唯一無二の場所となっていった。そんなLAMPを支えるスタッフたちもまた、長野県外からこの場所に惚れ込みやってきた移住者たち。ここで働く十二人の若者の内、十人が「LAMPで働くために、長野に移住した」という。なぜここには人が集まるのか? メンバーに話を聞いた。

 

スクールから『LAMP』への変遷

LAMPを運営するのは、WEB制作などの事業を中心におこなう『株式会社LIG』。東京・台東区に本社のあるIT企業がなぜ長野のゲストハウスを運営し、若者の憧れる宿にまで育て上げたのか。その過程にもまた、移住した若者たちの築いた歴史があった。ここがゲストハウスになる前の名前は、アウトドアスクール『サンデープラニング』。野尻湖へ来た人々にカヌーやカヤック体験の楽しさを伝える場所であり、遠方からの客を迎え入れる宿泊施設でもあり、『LIG』の社長・吉原ゴウさんの実家でもあった。あるとき、サンデープラニングの創業者である父親・吉原宜克さんから、東京に出て会社を立ち上げていたゴウさんのもとへ「そろそろ継いでほしい」との連絡が届く。しかし、当時のアウトドアスクールといえば、繁忙期にもお客がほぼ入らない、閑散とした状態。赤字経営続きの現状を嘆いた社長・ゴウさんは、新しいゲストハウスとして立て直すことを決める。

その立て直しに抜擢されたのは、長野に縁もゆかりもない、二十代の若者だった。それは、現在『LIG』の運営する京都の飲食店『イルラーゴ』で店長を務める堀田さん。彼は入社半年で長野行きを命じられ、未経験のゲストハウス運営を任されることになる。元々いたアウトドアスクールのスタッフにとっては、「変わらなければいけない」とは思いながらも、正解がわからない状態。旗を振るのは、新たにやってきた二十代の移住者。現在は多くの人に愛されるLAMPも、最初は多くの人々の不安とともに始まった。

当時は、行楽客にカヌーやカヤックを教えるアウトドアスクールが事業のメイン。スクールのお客さんのために、宿と食事も提供するスタイルだった。「スクールのお客さんが増えること」だけが頼みの綱になっている状況を打破するべく、変革が始まる。「宿だけでも、食事だけでも目当てに来てもらえるように」と考えられたのが、現地食材を使ったレストランと、ゲストハウスLAMP。建物のリノベーションには昔からのスタッフはもちろん、東京にいる『LIG』メンバーも手助けをした。そして当時の支配人・堀田さんは、『サンデープラニング』メンバーに積極的に関わり、少しずつ少しずつ、味方を増やしていった。地元の祭りに参加し、カヌーを体験し、「長野に移住したって聞いた」という遠方の友人たちが会いに来る。そんな姿を見て、現地のメンバーの意識も「あいつはできない」から「あいつはできないけど、俺が手助けする」へと変わっていった。「最初の三年間は、もう地獄のような数年だったと思いますよ」。そう語るのは、堀田さんから支配人のバトンを受け継いだ、料理人兼LAMP現支配人のマメさんだ。「でも、その数年間があるから、いまのLAMPがあるんです」

 

変化を求めるよそ者、の辛さ

支配人兼料理人のマメさんも、数年前に長野に移住したうちの一人。料理人として東京で四年間働いたのち、二〇一四年に長野にやってきた。「当時、勤めていた東京のレストランを辞めて、フリーでケータリングの提供や出張料理をしていました」。その後、『LIG』のパーティーをケータリング担当として手伝った際に、腕を買われてLAMP加入を誘われる。「当時は、東京でのハードワークも祟り、体を壊していた時期で。環境を変えたいと思っていたので、二つ返事でOKしました」。三十代、縁もゆかりも無い土地への移住。当時まだ付き合って三ヶ月だった恋人・さきさんと共に、誘いを受けた二週間後には長野の地へ飛び込んでいた。

「びっくりしましたよ。彼が長野行きを誘われた現場に私もいて、気がついたら、彼はLAMPで働くことになっていた」と当時を振り返る、さきさん。その後、二人は結婚し、いまではさきさんはホールの責任者兼デザイナー、マメさんは料理人兼支配人として共に働いている。「恋人になる前から一緒に働いていて、彼の信頼できるところも弱いところも知っていました。こっちに来て数年経って、彼も強くなった気がする。移住してよかったですよ」。仲睦まじく信頼し合う二人の移住体験談は、新天地での暮らしを求める人々にとっては憧れの対象かもしれない。しかし彼らも、最初から理想の暮らしが手に入ったわけではなかった。

「移住してしばらくは、辛かったですよ」と、マメさんは語る。「当時は、まだ前身のアウトドアスクールからLAMPへと大きな変革を遂げた直後で、経営も順調とは言えない状態。そんなときにまた、『LAMPのレストランを変えていく』なんて言う移住者が来たわけで」。よそ者としての疎外感に加え、移住直後の環境の変化に当然のように戸惑った。「心の落ち着け方をシフトさせるまでに、一年はかかりました」。一方で、悪い変化ばかりでもなかった。料理人である彼は、まず長野の水に驚く。「移住初日に淹れたコーヒーも、炊いたお米も、都会のそれとはまったく味が違って。根本的に、水が変わればこんなに変わるのかと衝撃を受けました」。長野の暮らしを好きになる糸口が見えた。「LAMPのある信濃町は二千メートル級の山々に囲まれて、山からの吹き下ろしと日本海側からの風を受ける。空気がいつも洗われているんです。綺麗な水源もあるし、大きなポテンシャルを感じました」。長野の魅力にも救われながら、働き続けて数年。マメさんは支配人となり、今度はLAMPへ加わろうとする若者たちを受け入れる立場となった。

 

自分から動ける人は順応できる。
LAMPじゃなくても

「意図的に移住者を雇ってるわけではないんです。はじめは『誰か辞めたら人が足りなくなる』ってタイミングで募集をかけていたんですが、五年目からは『ここで働きたい』という連絡がチラホラと来るようになって」

いまでは、正規雇用する十二人のスタッフのうち、十人が移住者だ。ここまで来るには、少なからず人の入れ替わりもあったという。移住した先で土地に残る人と、残らない人の違いはどこにあるのか? 「ほぼ、マッチングしたかどうかの問題だと思うんです。趣味をきっかけに移住する人もいますが、そういう人はサービス業の拘束時間の長さに悩むことが多いです。事前の予想より、趣味の時間を捻出するのが難しいんですよ。趣味を目当てに移住した人の多くは、林業だったり、土木だったり、休みがある程度多くて仕事とプライベートの時間がはっきり分かれている仕事につくことが多い」。LAMPの場合は、仕事の中にやりたいことを見出せる人、つまりは仕事と〝人生でやりたいこと〟をうまくクロスさせている人のほうが、うまく順応してきた印象があるという。「LAMPはスタッフ一人の裁量が大きいぶん、自分で動き出そうとしないと孤立しがちかもしれません。自分から動く人のほうが、周りと積極的に関わりながら順応していきやすい」。これはLAMPに限らず、どんな移住にも言えることかもしれない。「LAMPの採用条件って、いま思い返すと『いいやつ』ってだけ。落ちてるゴミを簡単に拾えるかとか、お客さんの目を見て挨拶できるか、とか。新しい環境に飛び込んだときに、好奇心を持って素直でいられたら、順応しやすいじゃないですか」。マメさんはふと、スタッフの名前を口にする。「The Saunaを作った〝べべ〟なんか、最初から『サウナを作りに来ました』って感じでしたから」。

元々は運営会社『LIG』の社員だった、〝ベベ〟こと野田クラクションべべーさん。LAMPに来る前は、企画でアメリカ横断をさせられたり、日本一周をさせられたりと、会社の先輩方の数々の無茶振りに答えてきた。そして、日本を一周するお遍路旅の最中にサウナに目覚め、理想のサウナを作る現場を探して、LAMPへとやって来る。クラウドファンディングで資金を集め、長野のメンバーと共に作り上げた『The Sauna』は、いまやLAMPが愛される大きな要素のひとつになった。「もしかしたら『LAMPの文化が変わっちゃう』とか思う人もいるかもしれないな、と思ったけど。蓋を開けてみればスタッフみんな、べべくんに対して協力的だった。DIYもみんなで手伝ったりして」。

コロナ禍でお客が減った時期もあったが、これまで来客対応に割いていた時間を、二棟目のサウナ「カクシ」作りに当てた。「自分の仕事が好きでやってますから。サウナやりたくて来てるのに、やってなかったらどうしようもないでしょ?」。当然のことのように語るべべさんは、今日も全国のサウナ好きたちを長野に迎え入れていることだろう。

 

複合的な施設が、
多様な雇用を受け入れる

サウナから上がったお客さんは、リフレッシュした状態でLAMPのレストランに入り、食事やお酒を楽しむ。遠方からの旅人は、そのままゲストハウスに宿泊する。「サウナ、宿、レストラン。複合的な施設だから、いろんな人をチームに迎え入れることができるんです」。アウトドアスクール時代から、多くの若き移住者たちが持ち込んで来た変革の種が、花を開いた。

事業が多ければ必要な人員は増える。それにしても、宿やレストランを運営する上で、十二人というスタッフの人数は多くも思える。「経営視点では、人が多すぎるとは必ず言われます。でも、例えばこれから三年経ってまたいまのコアメンバーを集めようとするほうが大変だと思っていて。事業の成長に合わせて人を集めるより、サウナや宿、レストランがスケールしてもいまのメンバーで回していける形をイメージしています」。LAMPのこの先を考えるマメさんだが、「極端に言ってしまえば、この場所がいつか健康ランドになっても、『うまいパンの食べれる場所』になっていてもいいと思ってる」という。「LAMPはこうだから」と定義することは、柔軟な変化を止めることにも繋がる。そうしたブレーキを、マメさんははっきりと「機会損失」だと語る。「べべみたいに、やる気のある人がどんどんチャレンジして、実現していく姿を見ると、周りも嬉しいでしょう」

新しいコンテンツを受け入れる土壌が、LAMPにはある。それはマメさんやベベさんが積み重ねてきた変革の上に。さらに遡れば、変革を成し遂げた初代支配人・堀田さんの泥臭い三年間が、そして、四五年前に妻の体を労るべくここにアウトドアスクールを立ち上げた、初代社長の挑戦があった上に、育った土壌があるのだ。「意識して『こういう文化にしよう』と考えているわけではなくて。最低限の部分だけ話し合いながら、各々の主体性に任せているんです。ここには専門的な関心を持っている人が集まっているけれど、同時にDIY精神でなんでもはじめてしまう素人集団でもある。メンバーが成長すれば、LAMPも一緒に成長できるんです」

 

新しい環境で働くことは、
「どう生きていこうか」の
証明かもしれない

そんなLAMPの下には、お金のためではなく、学ぶために働きに来る人もいるという。「ゲストハウスには昔から、〝ヘルパー〟という有償ボランティアの文化があります。ご飯とベッドだけ提供されて、働きながら学ぶ。そういう人ってすごく頑張って働いてくれるんですよ」。LAMPで働けば、サウナについて学ぶことができる。それと同時に、レストランや宿、LAMP全体に漂う哲学を学ぶこともできる。「成果報酬とも、また違う考え方だと思うんですよね。多分、LAMPで働くために移住してくれるメンバーも、ヘルパーも、自分たちが『どう生きていこうか』ってことを証明したいから、ここで働いているのかもしれないなと思います。だからみんな、楽しそうに働いているのかもしれない」。移住の選択は常に「いまの環境を捨てること」と裏表にある。大きな変化をともなってもなお、まだ試したことのない生き方に触れ、自分の生き方を考える。それは旅の効用にも少し似た、実践と内省のプロセスなのかもしれない。

マメさん自身も、多くの人から「LAMPをやっている意味」をよく聞かれるという。「たぶん、生き方の再定義をしたいんですよ。僕の場合は既存の飲食業の働き方に違和感があって。料理人として働きたい人とお店の数が合っていないから、業界全体でずっと人手不足。そういう大きな意味での働き方を都会で再定義しようとすると、競合他社とか、トレンドとか、外的要因が多すぎて大変でしょう。マーケットのない田舎で働き方を再定義すれば、そこに新たなマーケットを作れるから」。LAMPではあるとき、ランチメニューをハンバーガーに一本化した。「米が食べれないならいいよ」と目の前でお客に帰られる日もあったが、いまではハンバーガー目当てに長野県中からやって来るランチ客もいる。マメさんもまた、変化に伴う苦しみと向き合いながら、「やりたいこと」を試す一人だ。「東京を否定するとかではない。でも、移住しなかったら料理人を続けていなかったかも。生活のためのお金を都会で稼ぐなら、他の方法もあるから。

LAMPの仕事を通して、生き方の再定義ができる場所を提供しているつもりです。だから、悩んでいる人がここにきて、働いて、『こういう生き方もあるんだな』と思って帰ってくれたら、それでいいんじゃないかなと思う」。一見すれば放任主義ともとれるほどの自由な環境が、自分とぴったりハマる場所を探す若者たちを受け止め続けていた。

 

取材…徳谷 柿次郎 文…乾 隼人

写真…小林 直博

                   

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