#18歳で新卒入社 – 海士町で見つけた「やりたいこと」を突きつめ、島に恩返しできる自分になりたい

TURNS Member Interview-01

2021年4月、雑誌『TURNS』を発行する(株)第一プログレスに、18歳の社員が入社した。
名前は鈴木優太。横浜出身でありながら島根県立隠岐島前高校卒業という経歴を持つ、島留学の経験者だ。
鈴木が入学した隠岐島前高校(隠岐諸島・海士町)は、全校生徒の約半数が全国からの島留学生という、地域みらい留学のトップランナーともいえる高校である。
横浜の中学に通っていた鈴木は、高校進学のタイミングで自ら島留学を決意した。
なんでも手に入る便利な都会の環境を捨て、なぜ鈴木は島の高校へ進学を選んだのだろうか。
また、そこで何を経験し、今何を思ってここにいるのか。
TURNSスタッフとして活躍する彼に、その心のうちを訊いた。

※島留学とは…地域みらい留学とも呼ばれ、都道府県の枠を越えて様々な地域の学校に入学し学ぶ制度。現在、全国で数校が全国から生徒を募集している。

 

島への憧れと、価値観の混ざり合う環境への期待を胸に、「なんでもある街」から「なんにもない島」へ


↑隠岐諸島はその雄大な自然や文化からUNESCO世界ジオパークに認定されている。

 

Q. まずは、島留学を考えるようになったきっかけについて教えてください。

鈴木
中学は地元の公立中学に通っていました。中学2年までは、僕自身もなんとなく、このまま県内の高校に進学するんだろうなと思っていたんです。でも、いざ高校をいくつか見学をしてみると、どこも同じように見えて、これでいいのかと疑問を持って。「なんとなく高校進学して、行けそうな大学に行って、社会人になる」というレールが見えてしまい、本当にそれでいいのか思うようになりました。

そんな時に、思い浮かんだのが母の故郷でもある隠岐の島です。幼いころから夏休みには毎年、隠岐諸島にある祖母の家に通っていて、海と緑に囲まれた環境も町の人達も、僕は本当に好きだったんです。


↑隠岐の島で遊ぶ幼少期の鈴木さん

ちょうどその頃、隠岐諸島の島留学はニュースなどで取り上げられるようになっていたので、留学制度があることは知っていました。現地でオープンスクールに参加し、学校や寮の見学や説明を聞いた後は、もう島の高校にしか興味を持てなくなって。全国から集まった生徒たちの価値観が混ざり合う場所で、自分が何を感じるのかにも興味がありましたし、確実に視野が広がるだろうとも感じていました。また、先輩から「やりたいことを応援してくれる島」だと聞き、そんな環境に身を置くことができたらと、島での高校生活に期待が膨らんでいったんです。祖母は、島留学が決まったと伝えると本当に喜んでくれました。

 

Q. 期待に満ちた島留学生としての高校生活。実際はどうでしたか?

鈴木
刺激を受ける出会いばかりでしたね。まず、全国各地から集まった寮生たちのアグレッシブさに驚きました。寮には常時20個ほどの自発的なプロジェクトが動いていて、寮生はそれぞれ興味のあるものに参加していました。どこに行っても、誰かが何かコトを起こそうとしている……。僕の中学は、どちらかと言えば「真面目に何かやることがかっこ悪い」というような雰囲気があり、僕はそれが好きではなかったんですよ。とはいえ、ここまでの熱量は経験したことがなくて、入学早々、寮生たちのパワーに圧倒されましたね。

 

Q.鈴木さんも、何かプロジェクトに参加したのですか?

鈴木
参加しようと思って、寮生や地域の皆さんとの交流に勤しんだり、いろんなグループに顔を出したりはしました。でもあまりのパワーに圧倒されてしまって、実は、入学して1週間くらいでダウンしてしまったんですよ(笑)。出会う人皆に「すごい」と感じて、「自分も何かやってやろう」と思っていた気持ちが折れてしまったんですよね。さっそくの挫折で、ろくに食事もとらず、1週間ほど部屋に引き籠って、一気に10キロほど痩せました(苦笑)。

疲れ切って退学届を書くほど追いつめられていた時に、手を差し伸べてくれたのは、寮のハウスマスター(管理人兼寮生の相談役となるお兄さん的存在)や、担任の先生、寮生たちです。自ら公に出ていかなくても、皆が「大丈夫?」と声をかけて、僕の存在を認めてくれて。紹介された島の保健室のセラピストさんも、僕の話をとことん聞いてくれて……。彼らの存在があったからこそ、「無理しなくてもいいんだ」と思えたし、「もうちょっと頑張ってみよう」と思うことができたんです。その結果、5月の連休に一度実家に戻った時には、「早く島に戻りたい」と思えるほど、すっかり立ち直っていました。

 

Q.入学当初はそんなことがあったんですね。そこからの3年間はどうでしたか?

 鈴木
やりたいことにとことん挑戦した3年間でした。最初に参加したのは、当時住んでいた男子寮「三燈寮」で開催した蚤の市のプロジェクトです。もともと研修交流センター兼男子寮だった三燈寮ですが、当時は交流センターとして機能していなかったんです。そこで本来の役割を取り戻そうと、先輩たちが立ち上げたのが、「三燈蚤の市」。当日は地域の皆さんがたくさん集まってくれて、とても活気あふれるイベントになりました。もともと島の皆さんは祭りやイベントがあると、島全体がぐっと1つになるような力があって、この時初めてその活気を肌で感じたのを覚えています。2年目からは僕がこのイベントを先導したのですが、その際も100人を超える来場者があって、皆さんの熱量に胸が熱くなりました。島民が2300人くらいなので、その中で100人来てくれるって、本当にすごいことなんです。


↑鈴木さんがプロジェクトリーダーを務めた「三燈蚤の市」

また、この頃から、イベントなどを通して島の皆さんに「島の中に、外からの視点、高校生の視点が入ることが新鮮だ」というようなことを言ってもらうようになり、「自分にもできることがあるのかもしれない」と感じるようになっていきました。島の皆さんが当たり前だと思っていることが、僕たちにとっては「当たり前以上の感動があるもの」であったり、なにもないと思っている場所が「こんなものもある場所」であったりする。皆さんよく「なんにもない」と言うんですが、全くそんなことはない。その魅力を掘り起こすことが、自分たちの役割だと、高校3年間を通して学び、感じていたように思います。

 

映像で深めていった地域の皆さんとの繋がり。島の未来に貢献できる自分になるために、一歩外へ


↑映像に出会った「隠岐國学習センター3.0」映像制作ワークショップ

 

Q.プロジェクトやイベントを起こす際に、大切にしていたことはありますか?

鈴木
まずは地域の皆さんと向き合うことです。1度限りの盛り上がりや挑戦で終わってしまうものではなく、継続したり、変化したりすることでより良い未来に繋がるような、意味のある取り組みがしたいと思っていました。例えば、留学生たちは3年間で島での生活を終えて、それぞれの地元に戻っていくかもしれません。でも、島の皆さんにとっては、島での生活はずっと続いていくわけで、だからこそ、一度限りのプロジェクトでは失礼だし、意味がないなと思っていたんです。何かを変えていくことも大切ですが、島の伝統や文化を守ることも大切。島で暮らす皆さんのこれからの日々が良くなることを探して、そこに関わっていけたらと、島での生活を続けるうちに感じるようになっていました。

 

Q.島の皆さんの未来のために、と考えるようになったのは、なぜでしょうか?

鈴木
僕自身、島の皆さんに与えてもらったものが、あまりにも多かったからじゃないでしょうか。例えば、留学生には島親という、留学中の親代わりのような方がいるんですが、僕も島親さんには本当にお世話になりました。何をしに行くというわけではなく、休日にふと島親さん宅を訪れて、一緒に田んぼに出て米作りを教えてもらったり、民宿を経営されていたのでその手伝いをしたり。島に自分の居場所があって、生活を一緒にできることに何より安心感がありましたね。

それから、高校3年生になる頃(2020年4月頃)から流行し始めた、新型コロナウイルス感染症対策時期にも、地域の皆さんにたくさん助けていただきました。当時、春休みが終わって島に戻った留学生たちは、全員10日ほど自主隔離生活をしなくてはならなかったんです。でも、一人きりでの隔離生活は精神的に本当につらくて……。そんなとき、地域の居酒屋やレストランの方が1日3回の食事を僕たちのために作って持ってきてくれて。皆さんの「がんばれよ」という励ましが本当に嬉しくて、ありがたかったんです。

その出来事をきっかけに、寮の中からなんとか地域の皆さんに恩返しできないかと考えて着手したのが、感謝のメッセージを伝える映像づくりでした。

 

【特別編】島前地域の人に届け!感謝の想いを僕たちなりに地域の方へ。

 

Q.鈴木さんは、この映像以外にも、島でたくさんの映像作品を撮影していますね。

鈴木
当時、このメッセージ映像を見て、地域の皆さんから「こっちが元気をもらった」という声をたくさんいただいたんです。それで、「映像でできることが、僕にあるのかもしれない」と改めて感じました。その後は、島親さんである民宿「但馬屋」の魅力を知っていただくためのPR映像を手掛けたり、三燈寮の仲間たちと寮生活のコンセプト映像を作ったりしました。また、卒業制作にはお世話になった島の皆さん1人1人の写真を撮影して映像を制作。撮影には2か月かかりましたが、それでも全員の写真は撮り切ることができなかったほど、たくさんの人に支えてもらっていたんだと、改めて気づくことができました。


↑三燈寮コンセプト映像制作の様子。知夫里島にて。

 

民宿 但馬屋PR動画(隠岐の島 海士町)

【島留学】みんなでつくる島家、いつでも還れる島家

【卒業制作】「隠岐人」 / 3年間お世話になりました。

 

 Q.映像制作の経験はあったのですか?

鈴木
映像制作は、高校2年の時にワークショップで勉強・実践し、興味を持つようになっていたんです。「自分のやりたいことってこれかもしれない」と、ワークショップ後には「島留学生による本気の映像制作を通して、ふるさとが大好きな子どもたちを増やしたい」とクラウドファンディングで資金を集め、機材を調達。その機材をフル活用して、「島留学生日記」というYouTubeアカウントで映像を公開したりしていました。そのおかげで、先ほどに挙げた、島の皆さんの魅力を詰め込んだ映像をいくつか作ることができ、本当に嬉しく思っています。

【島留学生日記 チャンネル】
https://www.youtube.com/channel/UC5kX2C-qKAQrkd4M50cAMhg


↑高3春に実施したクラウドファンディングでは1ヶ月で約130万円の資金を集めた。

 

Q.2021年にTURNSに参画し、今後は、どのように島や地域と関わっていきたいですか?

鈴木
いつかは島に戻りたいと思っています。今はその時のために様々な経験を積み、知識や技術を身に着けている最中ですね。恩返しできる自分になるために、自分には何が必要なんだろうと考えつつ、毎日を過ごしています。

実は、高校卒業後は「地域おこし協力隊」として、島に残ることも考えていたんです。でも、今のままの自分では「島にあまり還元できるものが少ないな」と気づいて。せっかく島に残っても「お客さん」のような地域おこし協力隊にしかなれないなら、それは違うなと考え直し、一度社会に出る道を選びました。

島留学の3年間では、人と繋がることの力を目の当たりにしてきました。だからこそ、その経験を生かした仕事がしたいと、今、「TURNS」に参画しています。ここで何ができるかは、まだまだこれからの自分次第ですが、島に恩返しできるような力をつけ、島留学生の鈴木優太ではなく、鈴木優太個人として島に戻りたいと思っています。

その為にもまずは今、各地の仕事に敬意をもって取り組んでいきたいと思います。

 

鈴木さんは2021年7月、初めて社会人として海士町に戻った。手掛けるのは、島根県の隠岐諸島海士町にある日本初の本格的なジオホテル「Entô」の紹介記事および、それを軸とした町全体の取り組みを紹介する冊子づくりだ。

 

【海士町のさらなる挑戦】  turns.jp/62606

 

「海士町での取り組みをもっとたくさんの人に知ってもらい、島のすばらしさと、皆さんの熱量とを少しでも感じてもらえれば」と語る鈴木さん。
TURNSのメンバーとして、そして海士町を愛する1人の社会人として、これから鈴木さんがどのような挑戦をしていくのだろうか。

 

文 / 笠井美春 写真 / 塩川雄也

                   

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