豊かで良質な源泉とブナ林に恵まれた「秘湯」
古くは四〇〇年の歴史を持ち、日本の湯治宿の風情を今なお色濃く残す乳頭温泉郷は、秋田県南部の内陸に位置する仙北市にある。日本一の水深と高い透明度を誇る田沢湖、原生林のなかで滝と美しい清流が眺められる抱返り渓谷など、圧倒的なスケールの自然に恵まれたこのエリアの中でも、山間部に位置する乳頭温泉郷は、古くから「七つの源泉に七つの宿」と言われるように、それぞれ効能も見た目も異なる泉質を持つ源泉と、それぞれに個性豊かな宿を持つ。冬は積雪二メートルにもなるという乳頭山麓に温泉宿が点在する様子は、まさに「秘湯」の名にふさわしい。
今、ここ乳頭温泉郷で、さまざまな職種やワークスタイルが生まれていると聞き、取材に伺った。
七つの温泉みんなのセールスプロモーター
取材に応じてくれたのは、佐藤奈央維さん。乳頭温泉郷のセールスプロモーターとして七つの温泉宿と連携をとりながら、乳頭温泉郷全体を盛り上げるのが彼女の仕事だ。
この日、奈央維さんは乳頭温泉組合の組合長との定例のミーティングを行っていた。行政の観光に関する取り組みについての情報交換を始め、メディア対応や人材確保の課題、また最近の温泉郷内のニュースなど、さまざまな話題が飛び交う。
現組合長の竹内貴祐さん(休暇村乳頭温泉郷支配人)によると、乳頭温泉郷は昭和五五年から乳頭温泉組合として七つの別会社がゆるやかなアライアンスによってつながり、共存してきた地域だという。「乳頭温泉組合は、古くからある湯治宿としての雰囲気を残し、無理な開発はせずに調和を保ってきた温泉地です。ここに四年前から奈央維さんが関わるようになってくれてからというもの、これまでとは違った切り口での企画、営業のアイデアを提案してくださるようになり、助かっています。ブナ林を楽しめるようにと電動自転車のレンタサイクルを始めたり、スノードームのなかで郷土料理を楽しめるイベントを企画したり。また、温泉地はどこも人手が不足していますから、広報・人事・営業など、総務にあたる人員を自社では十分に持てないのが実情です。奈央維さんは、乳頭温泉郷全体の広報・人事・営業を一手に引き受けてやってくれている。大したものだと思います」と語る。
打ち合わせを終えた奈央維さんは「私が普段お世話になっている乳頭温泉郷で働く人たちをご紹介します。こちらへどうぞ」と電動自転車にまたがり、颯爽とブナ林のなかを駆け抜けていった。
湯治文化を守る伝統的な職業
最初に案内されたのは、「妙乃湯」。ここを切り盛りするのは女将の佐藤京子さん。長年東京で生活していたが、二八年前、祖父から受け継ぐ形で妙乃湯の女将になった。四七歳のときだった。「都会は今でも大好き。でもここが素晴らしいのは、実にさまざまな方がいらして、ゆっくりその方たちと向き合い、生き方や思いを感じられるということです」と京子さん。「わざわざお越しになる方たちの時間を一瞬でも無駄にしてはいけないという気持ちで、お客様に精一杯おもてなしをするのが旅館業です。でも人は失敗もします。そうしたら、心から謝る。そうやって心で向き合えば、優しい言葉が出てきます。すると世界が広がって、また元気に働ける。そうやって生かされる心持ちがいたします。こうした旅館業の奥深さに触れるにつけ、感謝する日々です」と語る。
「うちの湯守を紹介します」と女将と奈央維さんに誘われて浴室へ。湯守とは、源泉まで含めた入浴施設全般の管理を専業で行う職人のこと。季節によってお湯の温度を調節したり、山から引いてくる源泉を導くパイプを管理したりする仕事で、古くは封建時代から続く、歴史ある職業だ。「妙乃湯」の湯守・神成誠さんは「温泉宿の要を守る、責任ある仕事。源泉をさかのぼって山に登ることも多いのですが、私は山が好きだからこの仕事は合っているかもしれません」という。「この仕事の喜びはなんといってもお客さんがお湯に入って『ああ、いいお湯だったな』って言ってくれること」と顔をほころばせた。
多様化する職種と働き手。温泉地の働き方の、今
伝統的な職業が今なお残る乳頭温泉郷だが、近年ではインバウンドの需要も高く、中国、台湾、タイ、韓国からの観光客が全体の半数近くに上るなど、客層に大きな変化があった。心からのおもてなしはリピーターを生み、草の根の国際交流を生み出してもいる。今や乳頭温泉郷は「人里離れた秘湯」というイメージとは裏腹に、働く場としては実に国際色豊かなのだ。
乳頭温泉郷には、ネイチャーガイドもいる。宿を一歩出ればすぐそこにある豊かな自然を、宿泊客にも存分に楽しんでもらおうという趣向だ。長年ガイドを務めてきた番場政美さんは御年七三歳のベテラン。「自然が好きなのはもちろんだけれど、食べられる山菜を採ったり、沢で汲んだ水を飲んだり。ここだからできる体験をしてもらって、喜んでほしいんですよね」と笑顔で語る。
最後に案内されたのは、乳頭温泉郷の中でも最も開湯の古い、鶴の湯。ここは茅葺屋根の逗留宿や昔ながらの混浴の湯など、歴史ある湯治文化を今に伝える温泉だ。鶴の湯では二〇一七年から、アスリートの雇用を進めてきた。アルペンスキーヤーの岡本乃絵さんと、カヌーカヤックの佐々木翼さんである。鶴の湯社長・佐藤大志さんは「カヌーの川もスキー場も仙北市は一級品。アスリートが練習しながらここで働いてくれればお互いにメリットがあると考えました」と語る。
このように乳頭温泉郷はインバウンド需要の増加と人手不足を背景に、実に多様な人材が働く場所となった。ここで働く人たちが一様に口をそろえるのは、「人に喜んでもらいたいという気持ちのある人は、この仕事に向いている」ということ。その気持ちがある人なら、どんな人材も柔軟に受け入れ、働き手に合った新しいワークスタイルを作っていこうという柔軟な土地柄なのだ。
七つの温泉宿をつなぎ、
魅力を伝えるメディエーターという仕事
奈央維さんは、仙北市から車で二時間弱の秋田市に夫と二歳になる長男の三人で暮らしている。週二日の出社+週三日のリモートワークという現在のワークスタイルには、出産後に切り替えた。「入社した四年前は、外国人のお客様の宿泊予約時には泊まり込みで旅館業に携わるところから始めました。出産を経て、週三日は秋田市にいて県庁の観光課などと情報交換をしたり、イベント企画を考えたり、プロモーションのためのプレゼン資料を作ったりしています。週二日は乳頭温泉郷に出向き、七つの温泉の社長や女将とやりとりをしています」と奈央維さん。
奈央維さんが所属する株式会社グローカルプロモーションは乳頭温泉郷の七つの宿のうちの一つである「妙乃湯」が運営している。同社社長である佐藤貢一郎さんは「『これからの宿泊業はインバウンド需要に目を向けるべきだ』という構想があり、旅館業とは別会社として乳頭温泉郷のプロモーションを行う会社を二〇〇七年に立ち上げていました。そこに奈央維さんが入社してくれたおかげで、温泉郷全体としてより踏み込んだ事業やプロモーションができるようになりました。第三者の目で旅館を見て新たな提案してくれるのがありがたい」と語る。「乳頭温泉郷全体を一つの『庭』として捉えると、エリアとしての魅力がぐっと増すはずだと考えています。今後は乳頭温泉郷を『訪れてもらう』というところから、もっと深く『体験してもらう』というフェーズに行きたい。そのときに奈央維さんのようなメディエーター(媒介者・中間者)の存在は非常に重要です」と佐藤貢一郎社長。
「『妙乃湯』の社員だからといってうちの会社をひいきしているとは言われたくない。乳頭温泉郷全体を盛り上げるのが、私の仕事です」ときっぱりと言う奈央維さん。すぐに「それが結果的に乳頭温泉郷やひいては秋田の魅力を外に発信することにつながればいいと思っています」と微笑むのだった。
宿泊施設の大規模化に伴い、均質化する現代の宿泊業界のなかで、多様で個性的な温泉旅館が自主性を失うことなく存続し続けていくことで、日本人が古来より育んできた湯治文化とおもてなし文化を未来につなぐこと。「温泉セールスプロモーター」という彼女の仕事は、全国のモデルケースになりえるかもしれない。
文/石倉 葵(See Visions) 写真/佐々木 耕平(DreamPhoto)、高橋 希