留学の経験を活かし、生まれ故郷の仙台市で活躍するミュージシャン。そして今や、地元住民の生活の一部となった、29年も続くジャズのフェスティバル。〝ジャズ〟を通じて地域に活力を吹き込む人びとの思いを、ラジオパーソナリティの浜崎美保さんが聞いた。
PART 1
ミュージシャン 熊谷駿さん
「音楽でまちを盛り上げたい。それが僕の恩返し」
サックスプレイヤー・熊谷駿さんは宮城県仙台で生まれ育った仙台っ子。2014年、アメリカのバークリー音楽大学へ留学し、帰国後は仙台を拠点に音楽活動を行っている。熊谷さんはなぜ仙台に戻り、どんな思いで日々演奏しているのだろうか?「Skyrocket Company」のパーソナリティとして、地方を訪ね歩くことの多い浜崎美保さんがインタビューした。
あのとき背中を押してくれた奨学金があった
仙台駅から車で20分ほどの住宅街に、熊谷駿さんの事務所がある。ヴィンテージのサックスがズラリと並ぶスタジオで、熊谷さんは毎月「マンスリージャズナイト」を開く。ジャズを聴きに訪れるのは近隣の住民だ。
浜崎 熊谷さんはアメリカの名門、バークリー音楽大学に留学されました。何がきっかけだったのですか?
熊谷 高校(高専)のころから将来は音楽の道に進みたいと思い、高専卒業後は神戸の音楽学校に入学しました。そこがバークリー音楽大学の姉妹校だったこともあり、留学への希望はひそかにありました。ただ、この大学は学費が高い。年間400万円以上です。さらに大学のあるボストンは、物価が高いことでも有名ですね。経済的にむずかしいかな……と、あきらめかけたちょうどそのころ、「TOMODACHIサントリー音楽奨学金」※のことを知り、応募したんです。
浜崎 そして、2014年に、TOMODACHI音楽奨学金第1期生に選ばれたんですね。
熊谷 学費面だけでなく、アメリカへ行って何ができるのかといろいろ迷っていましたが、奨学金で吹っ切れました。背中を押してもらったと思っています。
浜崎 アメリカの大学生活はいかがでしたか?
熊谷 さすがというか、日本ではお目にかかったことのないようなすごいプレーヤーが、学校にもたくさんいて。〝凄いな!〟 の連続で刺激的な毎日でした。
数々の有名ミュージシャンを輩出してきたバークリー音楽大学で多くのことを吸収した。中央は熊谷さんと留学時代の仲間たち
浜崎 留学後、熊谷さんは仙台に戻ってこられました。プロのミュージシャンは東京を拠点にする人が多い中、熊谷さんはなぜ仙台を選ばれたのですか?
熊谷 実は、活動するなら仙台と留学前から決めていました。
浜崎 それは地元への思いが?
熊谷 そうですね。もう9年前になりますが、2011年3月。あの大震災のとき、僕は何もできなかったんです。家族も家も無事でしたが、僕自身が何も動けなかったことが、心にずっと引っかかっていました。
音楽には人を動かす力があると僕は思っています。僕自身、高校受験のときに、すばらしいサックスを聴いて音楽の道に進もうと思った。留学を考えたのも、将来、音楽で地元のまちを盛り上げられたらいいなと思ったからです。
浜崎 はじめからUターン志望だったのですね。
熊谷 まずは生まれ育ったまち、仙台市の八木山を盛り上げたいと思い、事務所を構えてマンスリージャズナイトを始めました。
浜崎 ジャズって、ちょっとむずかしそうなイメージがありますが。
熊谷 ジャズの好きな人はぶらりとジャズバーに行くこともできると思いますが、最初の一歩が踏み出せない人も多い。そうした人たちにこそ是非来ていただきたい。最近は口コミが広がって、近所のおばあちゃんや子ども来てくれるようになりました。
浜崎 ここで熊谷さんのサックスを聴いた子が、将来、音楽の道を目指すかもしれませんね。
熊谷 そうなってくれるとうれしいですね。八木山をジャズスポットに。僕の夢です。
定禅寺ストリートジャズフェスティバルにスペシャルゲストとして参加
浜崎 仙台といえば定禅寺ストリートジャズフェスティバルが有名です。熊谷さんは2018年に初出演されていますね。
熊谷 高校時代から憧れのステージでした。ただ、当時僕は柔道部で、バンド仲間もいなかったし、ソロで吹く勇気も無かった。なので、2年前に出演できたときは感無量でした。これからも毎年、出演することでジャズフェスを盛り上げていこうと思っています。
浜崎 ふだんも仙台でジャズコンサートを開かれていますね。こちらも続けていかれますか?
熊谷 仙台はどんどん復興が進んでいると思います。でも、やっぱり住んでいる人たちの気持ちのどこかに、ずっと消えないものがある。音楽を聴いている時間だけでも、それを癒すことができたらと思いますし、あのときの体験が何か次につながればといいなと思いながら、ステージに立ち続けています。
留学の経験を経てプロのサックスプレーヤーになった今、熊谷さんは、〝音楽の力〟を仙台のまちに吹き込もうとしている。
熊谷駿(くまがい しゅん)
1991年、仙台市生まれ。10歳のとき父親に勧められてサックスを始める。2014年、アメリカ・バークリー音楽大学に入学。2017年、アメリカ・ニューイングランド音楽院に大学院修士課程に入学。アメリカでの演奏活動も始めた。2018年、定禅寺ストリートジャズフェスティバルに初出演。ファーストアルバムの曲「Jump & Swinging」はテーマソングに選ばれた。現在の活動拠点は仙台。コンサート「BOP EXPRESS」「BE CASTLE」を開催している。
聞き手 浜崎美保
鹿児島県鹿児島市出身。モデル・タレントとして地元メディアを中心に活動後、拠点を東京へ。2013年4月〜TOKYO FMワイド番組「Skyrocket Company」のパーソナリティ(秘書役)に。
PART 2
定禅寺ストリートジャズフェスティバル
「50年後、仙台がジャズの聖地になっているかもね」
毎年、9月の第2週末に行われる「定禅寺ストリートジャズフェスティバル」は今年30周年を迎える。1991年から1年もかかさず開かれ、昨年は710グループ、約5000人が演奏し、約77万人が訪れた。なぜ、これほど市民に愛され、これほど盛り上がるのか。実行委員会の高橋清博さん、武藤政寿さんにお話を聞いた。
ジャズはストリートでやらなくちゃね
仙台市の定禅寺通りは4列のけやき並木が美しい。杜の都と呼ばれる仙台は、9月第2週の週末の2日間、音楽の都と化す。
浜崎 はじめに、定禅寺ストリートジャズフェスティバル(以下JFS)が生まれたきっかけを教えてください。
髙橋 はじまりは1987年のバブル時代に遡ります。当時、定禅寺通りにあったファッションビルのホールでジャズコンサートを開きました。街を盛り上げるために開いたイベントで、4年続いたのですが、ジャズはやっぱりストリートじゃなくちゃということで屋外に出たのが91年です。
高橋清博 (たかはし きよひろ)定禅寺ストリートジャズフェスティバル実行委員会 理事
浜崎 ジャズって屋外でやるものなんですか?
武藤 ジャズはアメリカ・ニューオーリンズのストリートで生まれた音楽です。楽器も演奏も自由に、自分の思いの丈を即興で相手に伝えるのがジャズ。だから路上なんです。
浜崎 運営はみなさん、市民の方がボランティアで?
髙橋 実行委員会は市民の有志が集まったものですが、当初は運営をプロの制作者に任せていました。プランニングから実行委員会が行う市民イベントになったのは93年の第3回からです。
浜崎 はじめのころはどんな目標でJSFを?
髙橋 10年は続けようと思っていました。そのためにはジャズに限定しないで、いろんな音楽をやろうと。ジャズはストリートでさまざまなものと融合して生まれた音楽ですから、ロックでも和楽器でも出演してもらえる〝フェス〟にしようと。
武藤 ジャズだけに限っていたら、ここまで市民に広がらなかったでしょうね。
武藤政寿(むとうまさよし)定禅寺ストリートジャズフェスティバル 実行委員長
浜崎 定禅寺ストリートジャズフェスティバルは2002年にサントリー文化財団の「地域文化賞」※を受賞されていますね。
髙橋 うれしかったですね。JSFが全国に知られるようになったのもこの賞のおかげです。
武藤 賞をいただいたことが、大きな転機になりました。市民ボランティアによる運営でしたから、なにかとつたない部分はありました。それが受賞という評価を得たことで、市民が自分たちで考え、自分たちで実行する、というやり方で間違っていないのだと確信が持てました。
今やフェスティバルは市民の生活の一部になっている
浜崎 2011年、震災の年も開催されました。大変なご苦労があったのではないですか?
武藤 僕たちはここ(仙台)に住んでいましたから、すぐに集まれる人間は集まって。実は中止しようという意見もありました。こんなときに音楽やっている場合じゃないだろうと。でも周りから〝やってほしい〟という声が多くて、よし、やろうと。僕らも、演奏する人も、聴きにくる人たちも、みんな大変な思いをしながら来てくれる。その人たちのつながりをつくりたいと思いました。震災を受けて生まれた企画も2つありました。ひとつは「Aの音」。Aとはラの音で、鎮魂の音とも呼ばれています。この音を演奏前、各バンドに1分間、ピアノ、ギター、ボーカル、それぞれにAの音を奏でてもらいました。もうひとつは「スイングカーニバル」です。楽器を流されて失った人も多く、解散に追い込まれたバンドも多かった。だれでも演奏ができるように簡単なパーカッションと譜面を用意して、いっしょに大合奏しましょうと。この企画は、今も続いています。
浜崎 当日の会場の雰囲気はいかがでしたか?
武藤 やはり例年とは違いました。どのステージも浮かれたところはなく、それでもみなさん、静かに笑みを浮かべて聴いていらした。〝やってよかった〟と思いました。
髙橋 音楽祭ができるまちは幸せだなと、改めて実感しました。
浜崎 これからJSFをどんなフェスにしていきたいですか?
髙橋 今の子は生まれたときからJSFがあって生活の一部になっていると思います。就職や結婚などで仙台を離れて暮らしていても、JSFの時期はここに帰ってくる、そんなお祭りでありつづけてほしいですね。
武藤 今年30周年を迎えますが、私たちのテーマは「継続」。出演するプレイヤーが子どもに音楽を教えて、その子がまた演奏に来る。親と聴きに来ていた子が大人になってまた自分の子を連れて来る、実行委員会もそうやって継続していければと思います。50年、60年後に、仙台がジャズの聖地になっていたら最高です。〝ジャズは一音一会〟なんて言われますが、どこかの会場で生まれたセッションが、だれかの心にずっと残ってくれたらいいですね。
音楽とともに、まちの未来を熱く語る。そんな人たちが運営しているからこそ、定禅寺ストリートジャズフェスティバルは地域に根付き、これほど長く市民に愛されているのだろう。
※サントリー地域文化賞 全国各地の芸術、文学、伝統の保存・継承、衣食住での文化創出、環境美化、国際交流などの活動を通じて、地域の文化向上と活性化に貢献した個人、団体に、毎年サントリー文化財団が贈呈している賞。1979年の創設以来、全国すべての都道府県より受賞者が生まれている。
文:佐藤恵菜 撮影:古里裕美
地域を見つめ続けるサントリー
サントリーホールディングス株式会社 |
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