新しいコンセプトを持つ学校を佐久穂町に
東京駅から新幹線で75分の長野・佐久平駅。そこから南へ車を走らせて至る佐久穂町には、西に八ヶ岳、東に地元で愛される茂来山を望むおおらかな風景が広がります。山裾では神秘的な原生林が清らかな水をたたえ、街の暮らしを支えています。
▲開けた土地の向こうに雄大な浅間山を望む風景
▲山あいに集落が広がる佐久穂町大日向地区
実はここ1年ほど、移住する人が増えている佐久穂町。その理由は、オランダで広まった「イエナプラン教育」を取り入れた日本初の認定校「学校法人茂来学園 大日向小学校」が2019年、この町に開校したこと。子どもたちの8割は他県からの移住者で、その家族はもちろん、先生やスタッフの多くも佐久地域に移り住んでいるのです。
校長を務める桑原昌之さんも移住者の一人。開校前年の2018年初夏に神奈川から単身で移り住み、学校に隣接する大日向地区で暮らしています。
▲広い空に浅間山を望む佐久穂町のおおらかな風景は生まれ故郷の福島・会津とも似ていて「安心を感じます」と桑原さん
長年、神奈川の公立小学校で教諭を務めてきた桑原さん。その傍ら、スポーツの知見を生かして文部科学省のプロジェクトに参画するなど広い視野で教育に携わってきました。
2012年夏、教育仲間に誘われて視察に出かけたオランダで出会ったのが「イエナプラン教育」。「個」を大切に、どんな人も幸せに生きることを目指す教育を行うイエナプランは、異なる年齢の子どもたちでクラスのようなグループをつくり、子どもたち自身が見つけたテーマや教科を横断して学ぶなど、一人ひとりの自主性や可能性を生かした教育が行われます。
▲子どもたちにとって安心で居心地の良い「リビングルーム」として設計された大日向小学校の教室
イエナプランとの出会いをきっかけに、日本で新しい教育のあり方を模索するプロジェクトに参加した桑原さんは、縁あって国内初のイエナプラン認定校の校長を任されることに。それまで公立の学校で子どもや教師を取り巻くさまざまな問題に直面してきた桑原さんは「イエナプランならこの状況を変えられるかもしれない」と可能性を感じ、転身を決めました。
利便性と豊かな環境が同居する地域で暮らし、学ぶ
新しいコンセプトを持った学校を、なぜ佐久穂町に?理由の一つは、都市では得られない環境にあります。学校の周囲には豊かな川や森があり、水田や畑、果樹園が広がっています。こうした自然や地域の営みすべてが学びの環境となり、子どもたちは地域の人たちと交流しながら、「本物から学ぶ」ことができるのです。
首都圏から移住しやすい環境も大きな理由。入学を希望される生徒やご家族が県外からの移住を伴うであろうことはある程度想定されていたので、新幹線と車を乗り継いで東京から1時間半でアクセスできる利便性は大きかったのです。
「佐久地域は冬の寒さは厳しいものの長野県内では降雪量が少ない地域なので、都市からの移住者も暮らしやすいんです。学校の周りは自然豊かですが、すぐ近くには地元で人気のスーパー『ツルヤ』がありますし、少し車を走らせれば佐久市の市街地なので、暮らすには事欠かない環境。飲みに出かけることもありますよ」
▲廊下とオープンにつながる大日向小学校の職員室。子どもたちも気軽に遊びにやってくる
移住前に佐久穂町の歴史や風土を学び、魅力を知ったという桑原さん。「これは笑い話なんですが」と前置きしながら、こんな話をしてくれました。「僕はお酒が好きなんですが、いい酒蔵があることも佐久穂町に感じる魅力の一つです。調べてみると、佐久地域には米栽培から自社で行い、伝統的な製法を守り続ける酒蔵がたくさんある。私の生まれ故郷の会津もそうですが、しっかりとした酒蔵が残っている地域は間違いないと思うから」
山々からの清らかな伏流水、澄んだ空気と豊かな大地に育まれた米、そして地域で脈々と受け継がれる職人技が合わさって生まれる地元の酒は、佐久地域の魅力を雄弁に物語る存在でもあるのです。そして何より、「移住してきた生徒の家族やスタッフの生き生きとした表情を見ていると、地域の良さを実感します」と桑原さん。
「移住してきた人たち、みんな元気になるんですよ(笑)。空気も水も食べものも、全部おいしいから。地域の方から野菜をお裾分けしてもらうことも多いです。朝は本物の鳥の声で目覚めるしね。本当にいいところなんです」
地域も学びの舞台になる
当初、学校設立の候補地として佐久穂町の他に県内数カ所が挙がっていたそう。その中で佐久穂町を選んだもう一つの理由を、桑原さんは教えてくれました。
「私は40代半ばで一度学校を退職し、大学院に入学しているんです。研究テーマは地域におけるスポーツ政策。例えば『地方の街にプロスポーツチームができるとどんなことが起きるのか』といったことですね。他の多くの中山間地域と同じように少子高齢化の進む佐久穂町に新しい学校ができて移住者が訪れることで、街に何が起こるのか。そこに、自分の学びを生かせると感じました。学校という場所は、昔から地域の公共財です。この学校が地域とやってくる移住者のハブになり、学校の中で回流することで地域が元気になったらいいなと思いました」
大日向小学校は、2011年に閉校した「町立佐久東小学校」の校舎をリノベーションして開校しました。この場所の歴史は古く、昭和3年から地域の子どもが通う小学校があったそう。長い間地域で大切にされてきた小学校の閉校を残念に思っていた地元の人たちは、「子どもたちの声がまた聞こえてくるのが楽しみ」と、大日向小学校の開校をとても喜んでくれました。準備期間から近隣や役場の人が温かく迎えてくれたことが、「とてもありがたかった」と桑原さんは振り返ります。
「本当に優しい方ばかりなんですよ。開校前に入学希望者に向けたイベントを企画したのですが、前日に学校へ行くと、驚いたことに地区の区長さんたちが草だらけの校庭をすっかりきれいにしてくれていて。『うちのブルーベリー畑に子どもたちと食べに来いよ』と声をかけてくれた方もいたし、役場の方も親身にスピーディーに対応してくださいました。校舎と土地は、町から学校法人に譲渡していただきましたが、今も『地元にお借りしている』という思いで運営しています」
▲地域の皆さんと一緒につくる運動会。秋には交流会も
その思いの現れの一つが、学校の食堂を一般に開放する「大日向食堂」。昼どきになると子どもたちや保護者に混じって地域の人も一緒に食事をしています。使われる食材も、地元佐久穂町産が基本。この場所を通じて、地域に経済効果や雇用ももたらしています。
大日向小学校が建学の精神の中で掲げている一つが「共に生きる」。子どもたちのまわりには教職員がいて保護者がいて、地域の人がいる。まわりの存在があって初めて「学校」になるという考え方です。
「学校はみんなでつくるもの。校舎の中だけで完結するのではなく、外側にいろいろな世界があり、その広がりがまた自分に戻ってくる。大日向小学校の核となる活動に、子どもたちが自分で問いを見つけて行動する『ワールドオリエンテーション』がありますが、地域の人と地元の山へ一緒に登ったり、地域で働く人にインタビューさせてもらって新聞をつくったり、地域の皆さんと“共に生きる”を実践しているところです」
準備期間から大変お世話になった地域の方との縁で、名物のプルーンを育てる「プルーンプロジェクト」も発足しました。子どもたちや保護者で摘果や収穫、パック詰めを行い、「大日向小学校ブランド」として直売所などで販売しています。
学校を起点に多様なストーリーが生まれる
さらに、子どもと一緒に移住してきた家族が佐久穂町内でお店を始めたり、何人かで集まって学童保育を立ち上げたりと、学校を核にさまざまな動きが生まれています。
「当初から、子どもたちや保護者が時間をかけて地域に溶け込むことが大切だと考えていました。学校は、ただあるだけ。ここにいる人たちがどんどんおもしろいことを始めるときに、学校をハブとしてどんどん使ってほしい。いろいろなことが絡み合いながらみんなで取り組んでいけたら楽しいですよね」
▲子どもたちの保護者はいつでも学校に出入り自由。一緒に昼食を食べたり学校運営を自然と手伝ったり、垣根のないコミュニティが生まれている
2019年10月、佐久地域に大きな被害をもたらした台風19号。大日向小学校の体育館も、一時避難所となりました。停電や断水に見舞われる中、桑原さんは地元消防団と泊まり込みで待機。翌日から役場や水道局と連携しながら少しずつ復旧作業を開始しました。
「町役場では断水に合わせていち早く給水車を手配してくれて、翌日には町長が『学校は大丈夫ですか』と、備蓄していた水を軽トラックの荷台一杯に持たせてくれました。被害が少なかった地域に暮らす生徒の保護者も『何かできることをしたい』と、敷地に流入した土砂の撤去作業を自主的に行ってくれたり、消防隊におにぎりを差し入れたりしてくれて。長くこの地域に住む方から聞いても過去に例がない大きな災害とのことでしたが、地域のコミュニティの強さを改めて感じるきっかけになりました」
学校という場所を核に地域の人や移住者が関わり合い、より楽しい未来をつくっていく。佐久穂町には、「共に生きる」を体現する場所が生まれていました。
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〇学校法人 茂来学園 大日向小学校
長野県南佐久郡佐久穂町大日向1110
https://www.jenaplanschool.ac.jp/
〇佐久穂町 移住・定住支援サイト「さくほ de 暮らす」
https://www.town.sakuho.nagano.jp/iju/index.html
〇長野県の移住ポータルサイト「楽園信州」
https://www.rakuen-shinsyu.jp/
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文:石井妙子 写真:林 光