あたりまえが、とくべつ。
今こそ、福島県浜通りの笑顔に会いにいこう。
浜通り体験取材ツアーvol.3

ここからは旅の終盤の様子をつづっていく。野馬追で有名な南相馬の小高区から方向を南に変え、浜通りの中でも山間部にあたる葛尾村、川内村へと進んでいく。最後は東北の南の玄関口、いわき市の勿来へと車を進め、いよいよ旅はクライマックスを迎える。

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南相馬市小高区・haccoba -Craft Sake Brewery-

2日目の最後に向かったのは、今回の旅程で最北端の地となる南相馬市の小高区。南相馬市は鹿島区、原町区、小高区と、平成の大合併前の行政区画ごとに、3つの行政区があり、その中でも小高区は最も南部にある。原発事故の際は南相馬市内で唯一、エリア内の全住民に避難指示が出され、一時は人口がゼロとなったまちだ。

そんな小高区に、昨年新たな酒蔵がオープンした。その名を『haccoba(はっこうば)』という。ただ、この『haccoba』、一般的な日本酒の酒蔵とはちょっと違う、ユニークな場所になっている。

まず、作っているお酒は、分類的には「清酒」ではなく、「その他の醸造酒」だ。それにこの酒蔵は、移住者4人で運営されており、蔵自体も一般的な民家の一階部分に収まるほどのコンパクトさ。さらには同じフロアに飲食スペースもあり、蔵で作ったお酒をその場で楽しむことができる。

この『haccoba』の代表を務めるのが、佐藤太亮さん。埼玉県出身の佐藤さんは東京の大学を卒業後、IT企業で勤務。そののちに新潟県の日本酒の酒蔵に入り、酒づくりを学んだ。そして昨年、この南相馬の地で『haccoba -Craft Sake Brewery-』を設立。3人の仲間とともに、型にはまらない酒づくりを通した、新たな文化の創出を図っている。

『haccoba』で作られるお酒は、一般的なお酒と同じ原料であるお米と麹に、ビールの原料であるホップを加えて作られている。こうした製法は、酒造りが免許制となる以前の東北地方の家庭において採用されていた歴史があり、それぞれの家ごとに自由な酒造りができていたのだという。その後時代が進むにつれて、家庭での酒造りは法律の変更によりできなくなってしまったが、佐藤さんたちは、こうした手作りの文化をお酒を通して広めていきたいのだという。

「僕たちの酒造りはわかりやすく言えば『クラフトビールのカルチャーで日本酒を捉えなおす』という方法でやっています。クラフトビールのように自由な製法で、かつそれを日本酒の分野でやっていく。日本酒は伝統文化と言われることもありますが、それは裏を返せば、日々の生活からは距離ができてしまっているという見方もできます。だから僕たちは酒づくりをもっと生活に近いところに引きつけて、これからの新しい文化を作っていこうと思っています」

佐藤さんたちの全く新しい方法での酒づくりは、この南相馬の小高の地ならではなのかもしれない。

「僕らは『日本酒』という枠を飛び出して、フロンティアを切り開いていくような方法で酒造りをしていますが、それはこの小高も一緒だなと思っています。小高は一度人口がゼロになった街で、戻ってきたり、移り住んできた人たちがフロンティア的にまちづくりをしている場所。そういう場所で酒づくりをすることは、地域文化の表現者としての酒蔵として、ピッタリなんじゃないかと思っています」

『haccoba』の蔵は、いわゆるブリューパブという形を取っている。お酒が造られた蔵をガラス越しに眺めながら、その場で味わうことができる。メニューを見せていただくと、この蔵で作られたお酒の他にも、他の地域で作られた酒がラインナップされていた。

「このメニューに並んでいるお酒は、日本酒・クラフトビール・ナチュラルワインなどがありますが、その中の一部は全国各地で自分達と同じように新しく酒蔵を作った人たちのお酒です。ここで出すものは自分達が好きなものや、人におすすめしたいものを並べています。飲食店が少なくなってしまった小高で、自分たちのお酒だけではなく、いろんなこだわりを持ったお酒が楽しめる場所を提供できればと思ってやっています」

つくり手のこだわりと、新たな文化を作っていく意気込みがいっぱいに込められた『haccoba』。取材のあと、看板商品の『はなうたホップス』を飲ませていただいたが、日本酒の甘さのなかに、ホップ独特の軽やかな香りがたつ、まさに新感覚のお酒だった。本当にここから新たな文化が作られていくんだなと心から思える、そんな酒蔵だと思った。

 

葛尾村・ZICCA

2日目の取材が終わり、小高から宿のある葛尾村へと向かう。

これまではずっと海沿いの地域を巡ってきたが、ここからは阿武隈山地の山間部になる。海沿いでは見られなかった雪が道路に積もっているところもあり、同じ浜通りでもこれまでとは別世界だ。

1時間ほどの道のりを経て、葛尾村のゲストハウス『ZICCA』に到着すると、はんてんを着た若い女の子が出迎えてくれた。なんだか慣れない様子ではあるが、寒空の下でも元気よく応対してくれる。

実はこの女の子、秋田からこの冬の間だけ葛尾で生活するというインターンの大学生で、田頭奈寿菜(たがしら なずな)さんという方だ。埼玉県出身だが、高校生の時にいわき市や葛尾村を訪れた縁があり、この冬インターン生としてこの『ZICCA』に泊まり込みで働くのだという。

チェックインを済ませて、すぐ近くにある温浴施設『せせらぎ荘』でお風呂に入ってから、再びZICCAに戻る。すると、今日の宿番を担当してくれる阿部優子さんが、晩ごはんの準備をして待っていてくれた。

阿部さんは一般社団法人葛力創造舎のスタッフ。震災を経て人口が1500人から100人以下まで減少した葛尾村において、持続可能なコミュニティを維持するためのサポートや、地域の産業創造に取り組むのが葛力創造舎だ。 (なお、現在の葛尾村の村内居住者は400人超まで回復している) ZICCAも葛力創造舎が運営するゲストハウスで、葛尾村を訪れる人に温かい食事と布団を用意してくれる。

阿部さんが作ってくれた晩ごはんをいただきながら、葛尾村のいろんな話を聞くことができた。葛尾村には松本さんがとても多いこと。「結」と呼ばれる農村集落ならではの文化が今でも残り、コミュニティの力がとても強いこと。(この日いただいた晩ごはんは阿部さんが村のお母さんたちと一緒に作ったというお弁当だった。)村の人は阿部さんや田頭さんのような若い人たちをとても温かく迎えてくれることなどなど… 

(撮影:久保田貴大)

食事のあとも、1日目に訪れたふたばいんふぉで偶然購入していた葛尾の日本酒『でれすけ』を飲みながら、思わず遅くまで話し込んでしまった。

「ZICCAの一番のおすすめは日の出」という田頭さんのお話を聞いていたので、翌朝は少し早起きをして外に出てみた。キリッと引き締まる寒さが体に染み込む。しばらくすると、東の方角から朝日が顔を出した。うっすらと雪化粧をした田畑や山肌がオレンジ色に染まり、葛尾の一日が始まった。朝陽に見とれる我々の様子を見て、田頭さんはなんだか満足そうな表情だ。

朝ご飯は阿部さんと田頭さんが2人で協力して作ってくれた。阿部さんの地元、宮城県の石巻で獲れた焼き魚をはじめとしたおかずと、白米、味噌汁が並び、「これぞ日本の朝」といった感じの朝食だ。

二人の笑顔に癒された一行は、朝食を食べると、別れを惜しみながら葛尾を後にした。

 

3日目 川内村・天山文庫

双葉郡には6町2村があると、この記事でもすでに説明したが、その2村のうちの一つが葛尾村で、もう一つが川内村である。川内村は葛尾村の南、いわき市の北に位置し、近代に入ってからは木炭の一大生産地として知られていた。

そんな川内村は、いわき市出身の「カエルの詩人」こと、草野心平がたびたび訪れたことでも有名。この日訪れた『天山文庫』は、川内村の名誉村民となった草野心平のために、村の人たちが寄付を募って作り上げた文庫で、草野心平が所有していた蔵書3,000冊がここで保存され、今でも閲覧することができる。

この天山文庫の管理人を務めるのは、川内村出身の志賀風夏さん。もともと草野心平をほとんど知らなかったという志賀さんは、管理人を務めるために天山文庫の蔵書を端から読み漁ったのだとか。次第にこれまでのどの管理人よりも草野心平に詳しくなったというほどで、志賀さんが管理人になって以降は、これまでされてこなかったという来館者への施設の説明なども行い、天山文庫の魅力発信に積極的に取り組んでいる。

最近では写真映えするスポットとして、紅葉の季節にはたくさんの人が訪れるほか、ウェディングフォトの撮影場所として、天山文庫を利用される方もいるとのこと。

また、天山文庫の麓にある『草野心平資料館』では、草野心平が遺した詩の他、日銭を稼ぐために草野が新宿で経営していた『Bar 學校』の模擬店舗を見ることができる。

ちなみに、管理人の志賀さんは、今年の秋に川内村内で新たに古民家カフェをオープンする予定なんだとか。村の歴史を引き継ぎつつ、新たなページを刻もうとする志賀さんの活躍から目が離せない。

 

双葉町・双葉ダルマ市

川内村をあとにして向かったのは3日間にわたる旅の最後の目的地、いわき市勿来の復興公営住宅『酒井団地』だ。ここには、原発立地自治体で今でも町域のほとんどが帰還困難区域となっている双葉町の住民の方々が多く入居し、生活を営んでいる。

双葉町では300年ほど前から毎年正月の鏡開きの頃にダルマ市が行われ、町の一大イベントとして、双葉の中心街は多くの人で賑わったという。今からおよそ30年ほど前には、双葉町内のJAの婦人部の発案により、オリジナルの『双葉ダルマ』が完成。太平洋の海をイメージした青色の縁取りや、町の鳥であるキジの羽をあしらい、未来へ向かって羽ばたくさまを表現した絵付けがなされており、長年町民に親しまれてきた。

しかし、そんな双葉町のダルマ市も、震災の影響により、町内で開催することが困難に。双葉の町民はそれぞれ散り散りに全国各地へ避難し、先の見通せない状況となった。

それでも町民の心の拠り所であるダルマ市を継続させようと、有志による団体『夢ふたば人』を結成。そして、震災の翌年の2012年、町民の多くが避難していたいわき市内の南台仮設住宅において、前年から途切れることなくダルマ市が開催された。

南台の仮設住宅が閉鎖となってからは、現在の勿来酒井団地で開催されるようになり、新作ダルマの販売や、飲食や物販の出店、また、ステージパフォーマンスも行われ、多くの人出で賑わう。取材で訪れた日も、気持ちのいい小春日和の陽気の下、たくさんの人が会場を訪れていた。中にはこの日のために遠方にある避難先から訪れる人もいるそうで、町民の再会の場として、毎年さまざまな想いがこのダルマ市に寄せられる。

(撮影:久保田貴大)

お昼前になると、会場ではダルマみこしが担がれ、法被を着た男衆が団地の広場を練り歩き、訪れた人の無病息災や商売繁盛を祈願していた。

このダルマみこしで先頭に立って声を出していたのが、『夢ふたば人』の会長である中谷祥久さん。中谷さんは元々双葉町の消防団に所属。震災後、住民がバラバラに避難し、町民のコミュニティが危機的な状況に陥る状況を目の前にし、町の伝統行事であるダルマ市の継続開催を発案。中谷さん自身も埼玉県内へ避難を余儀なくされていたが、仲間とともにダルマ市の開催を実現することができた。

震災から11年の年月が経ち、双葉町内でもJR常磐線の双葉駅が営業再開するなど、徐々に復興への足がかりが見えつつある。今年の夏には町内の「特定復興再生拠点」と呼ばれる一部のエリアの避難指示が解除され、ダルマ市も来年からは双葉町内で開催される予定だ。

これに伴って、これまでダルマ市を主催してきた『夢ふたば人』は避難先でのダルマ市開催という役目を終えたため、来年以降は主催から退くことになるという。中谷さんはこれまで自分たちを受け入れてくれたいわき市の方々に感謝の気持ちを述べられたうえで、「これからの双葉の未来を、またみんなで作っていけたら」と静かに語られた。

 

3日間の旅を終えて

3日間の日程を終えて改めて旅を振り返ってみると、私たちを迎えていただいた地元の方々の優しく、たくましい笑顔が思い起こされる。震災から11年たった今でも、福島の課題はまだまだ多い。だが、浜通りを実際に訪れてみると、日々を楽しく過ごしながらも力強く暮らし、前へと進もうとする人々の姿に、思わず身が引き締まる思いがする。

11年前には東北で大きな震災があった。そして、2020年代は今のところコロナ一色で、これまで当たり前だと思っていたことが、決してそうでないことを、日本中の人が思い知っただろう。

今は移動が難しい時期ではあるが、いずれ状況が落ち着いた時には、ぜひ浜通りを訪れてほしい。次々と困難が訪れ、ますます先が読めなくなっているこの時代に、きっと大きなヒントが得られるだろう。いかなる困難をも乗り越え、笑顔に変えていく力が、ここ、浜通りには間違いなく存在する。

 

文:久保田貴大 写真:アラタケンジ

                   

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