あたりまえが、とくべつ。
今こそ、福島県浜通りの笑顔に会いにいこう。
浜通り体験取材ツアーvol.2

(vol.1記事はこちら

浜通りの笑顔に会いにいく3日間の旅は、1日目の佳境を迎え、これから双葉郡の中部、富岡町、大熊町へと向かう。このエリアは原発事故の影響で今も立ち入りが制限される帰還困難区域があるエリアだ。11年の時を経て、いま、双葉郡はどのような姿になっているのだろうか。

この場所で暮らす地元の方に会いに行ってお話を聞いてみた。


富岡町・ふたばいんふぉ

楢葉町を後にし、国道6号を通ってさらに北へと車を進める。福島第二原子力発電所の入口となる交差点を過ぎると、富岡町となる。町の市街地に入ってすぐ、左手に『ふたばいんふぉ』という情報発信施設がある。こちらは浜通りで唯一の民間が運営する震災の伝承施設でありつつ、双葉郡を訪れる旅行者へむけた「観光案内所」でもある。

館内には双葉郡6町2村の、震災からこれまでの軌跡を掲載したパネル展示や、双葉郡にゆかりのある産品のアンテナショップ、さらには来館者向けのシェアスペースがあり、地元の方のコミュニティスペースとして、県外からの来訪者の水先案内所として、幅広い人に利用されている。

こちらを運営するのは、地元で宿泊業を営む平山勉さん。長年富岡町で宿泊業を営まれていた平山さんは、震災後私財を投じてこの『ふたばいんふぉ』を設立された。

双葉郡をはじめとした浜通りには、自治体や電力会社が設置した伝承施設は数あるものの、民間で運営されているのはここだけだ。

館内の展示は、住民目線の震災と復興の現状を伝えるため、あえてデザインしすぎないよう心がけているとのこと。そのため以前訪れた来館者からは「ヴィレッジヴァンガードみたい」と言われたこともあるという。一つ一つの展示を見ていくと、震災・原発事故・その後の復興までの「生の声」を受け取ることができる。

平山さんは「展示を見ていただくことで、双葉郡でも普通の暮らしが少しづつ戻ってきてることを感じてほしい」という。

「ふたばいんふぉは、住民にとっても観光客にとっても、どこに行けばいいのかわからなくなった時にまず立ち寄る場所。それこそトイレに立ち寄るだけでもいいので、まずは足を運んで声をかけてほしい」

双葉郡のいまを知るきっかけとして、まずはふたばいんふぉを訪れてみよう。

大熊町・ほっと大熊

いわきから始まった浜通りの旅も、早くも1日目が終わり、浜通りの広い空がだんだんと茜色に染まっていった。

(撮影:久保田貴大)

この日泊まったのは、大熊町に昨年10月にオープンしたばかりの『ほっと大熊』。福島第一原子力発電所の立地自治体である大熊町は、震災から11年が経つ今、特定再生復興拠点に指定されたエリアから徐々に帰還困難区域の指定が解除されており、まさに復興の真っ只中にいる。特にJR大野駅周辺のエリアは今春の避難指示解除を目指していて、町に賑わいが戻ることが期待されている。

『ほっと大熊』はそんな大熊町の中でも、帰還困難区域の外側、『大川原地区復興拠点』の区域内に立地する『大熊町交流ゾーン』の施設のうちの一つ。

日帰りの入浴施設と宿泊施設を兼ね備え、町外に避難した住民の一時帰宅に伴う宿泊や、復興に携わる従事者の方の保養を目的としているが、一般の方でも施設を利用することができる。

「避難先から大熊に帰ってこられた地元の方達がほっとできるように」というコンセプトで作られた館内は、まるで自宅に帰ってきたかのような雰囲気に包まれている。宿泊棟の各部屋は通常のホテルと比べると、広めのスペースを確保しており、大人数での宿泊や、連泊でもゆったりとできる間取りだ。

さらに、各部屋の中の家具や調度品は、多くが福島県・会津の木材を使用している。施設を管理するスタッフの川村さんによると「震災後、多くの大熊町民が会津へ避難し、会津の方達には大変お世話になった。そうした縁もあり、館内には会津の産品を豊富に使わせてもらっている」とのこと。

他にも、一部の客室では岩手県・盛岡市を拠点に活動する「福祉実験ユニット」ヘラルボニーによる壁紙や家具の装飾が施され、室内がカラフルに彩られている。

スタッフの川村さんは大熊町の出身。もともと東京のホテル管理会社に勤務していたが、その会社がほっと大熊の指定管理会社となり、これがきっかけで自身もUターンされた。

震災を経て大きく変わりゆく地元の姿に「少し寂しい気持ちもある」というが、それでも、一歩ずつ前へと進みゆく地元の姿を近くで見届けたいとおっしゃっていた。

 

2日目 双葉町・ペンギン/FUTABA Art District

夜が明けて、旅は2日目。空はすっきりと晴れ渡り、気持ちのいい朝を迎えた。

この日まず訪れたのは、双葉町産業交流センター内にあるファストフード店『ペンギン』。双葉町産業交流センターは、『東日本大震災・原子力災害伝承館』の隣にあり、県内外から双葉町を訪れた人や、地元の方々がやってくる。

館内に入ると、お土産店を抜けたところにフードコートがあり、『ペンギン』はこちらの一角で営業されている。160gのカツが入ったボリュームたっぷりのカツサンドや、小腹を120%満たしてくれるあんこと塩ラスク入りのソフトクリームなどなど、どこか懐かしさを覚えるメニューで、訪れる人を迎えてくれる。

『ペンギン』は、もともとJR双葉駅前に立地し、通称「ペンギンのおばちゃん」と呼ばれ町の人に親しまれた、吉田岑子さんによって経営されていた。いわば町のコミュニティスペースのような場所で、学校帰りの高校生などが主な利用客。2007年に一度閉店し、その後の震災と原発事故の影響で、吉田さんは双葉町外への避難を余儀なくされた。

しかし、産業交流センターの開館を機に、吉田さんの娘である山本敦子さんがお店の再開を決意。10年あまりの時を経て、町の名物店が復活した。現在は山本さんと、山本さんの娘である美雅さんをはじめとしたスタッフで営業を行っている。

この日は美雅さんが店番を担当していて、お話を聞かせてくれた。美雅さんは震災後、横浜で避難生活を送っていたが、現在はいわき市に居を構え、母親の敦子さんが経営するお店を手伝っているという。美雅さんは「震災以外のことでもっと双葉を知ってほしい」とおっしゃっていた。

『ペンギン』でソフトクリームをいただいたあと、美雅さんが「一度訪れてほしい場所がある」とのことで、双葉駅に向かった。双葉駅前は現在でも帰還困難区域となっており、駅とその周辺道路以外では立ち入り制限が敷かれている。建物も震災当時のまま残されており、当時の爪痕の大きさを思い知る場所の一つだ。

だがそんな双葉駅前に、おもわず「わっ」と思わせるような光景が広がっていた。それがこちらの壁画アート『FUTABA Art District』だ。

文字どおり、「あの日で時が止まったまま」の駅前の建物に、カラフルな色彩で、壁一面に広がる絵が描かれている。震災当時のままの風景の中に、希望そのものと言えるような、色とりどりの壁画が描かれている。

『FUTABA Art District』は東京のアート集団『OVER ALLs』による企画。「HOWではなくWOWによる復興」を掲げ、人が消え、時が止まったままの街並みを、アートの力で目覚めさせることを目的としている。

その中の一つに、見覚えのあるロゴマークとともに赤髪のおばちゃんが描かれている壁画がある。このおばちゃんこそが、「ペンギンのおばちゃん」こと吉田岑子さんだ。双葉駅前のシンボルであった『ペンギン』のお店と、「ペンギンのおばちゃん」が壁画アートになって復活していた。

ここを訪れたことで、先ほど美雅さんがおっしゃっていた「震災以外のことで双葉を知ってほしい」という想いを、より深く感じることができた。本当の意味でまちが再び立ち上がるために、一度「震災」や「復興」から脱線することの可能性を、ここでは体感することができる。

 

浪江町・道の駅なみえ

次に向かうのは双葉町のお隣、浪江町だ。テレビ番組『鉄腕DASH』の『DASH村』があったことでも知られる浪江町では、2017年に国道6号線沿いなど、町の中心部の避難指示が解除となり、一昨年の2020年8月には復興のシンボルとなる『道の駅なみえ』がオープンした。

道の駅は常磐線の浪江駅から徒歩15分ほどのところにあり、地元の産品を購入できる産直市場やフードコートのほかに、双葉郡内で唯一となる無印良品が出店。また、震災で県外へと避難していた地元の酒蔵『磐城壽』の鈴木酒造店が店を構えるなど、観光だけでなく、町のインフラとしても機能する、ほかに類を見ない画期的な施設となっている。

この道の駅の企画に携わったのが、一般社団法人まちづくりなみえの菅野孝明さんだ。2014年に浪江町内に道の駅建設計画が立ち上がった当初から、町役場と民間業者のコーディネート役を務め、道の駅完成に必要なリソースを集めるのに尽力された方だ。

この日は道の駅の隣を流れる請戸川を見渡せる場所に、テントとタープを張って取材クルーを迎えてくれた。

「このテントやタープは1時間半で準備したんですけど、たったそれだけの時間でこういった場所を設けることで、ここでランチを取ることもできるし、ワーケーションの一環で会議を開くこともできる。夜になれば道の駅の中にある鈴木酒造店のショップ『SakeKuraゆい』で地酒『磐城壽』を買って晩酌することもできるかもしれない。そういったコンテンツづくりの実証実験として、今回はみなさんをここにお迎えしました」

お話を聞いていると、菅野さんの頭の中は浪江の町をいかにして知ってもらい、盛り上げていこうかというアイディアでいっぱいなようだ。

「浜通り地域はもともと、福島第一原発をはじめとした電源立地があって成り立っていた地域でした。だから浜通りで『観光』といったら、いわきのハワイアンズがあって…といった感じ。それでも、だからこそ浜通りの観光にはこれまで光を当ててこられなかったポテンシャルがあるんだと感じています。たとえば浜通りには、海と山が近くてどちらも楽しめるという強みがある。そこにこうしたキャンプなどのアウトドアを組み合わせることで、これまでになかったコンテンツをつくって提案できるんじゃないかと考えています」

菅野さんは福島県の川俣町出身。震災時は東京で働いていたが、「故郷がなくなる」という危機感を覚え、浪江町の復興支援ディレクターとして、地元・福島に帰ってきた。浪江での仕事の他にも、震災後の福島のありのままの姿を見て、聞いて、考える『ホープツーリズム』にも参画し、さまざまな手段で地域のコンテンツづくりや情報発信に関わってこられた。

その中でも、2020年にオープンした『道の駅なみえ』は、浪江や浜通りの復興のシンボルとして、開店当初から全国的に大きな話題となった。取材で訪れた日も、家族連れから長距離ドライバーまで、多くの人が道の駅を訪れ、大いに賑わっていた。

菅野さんに道の駅の中を案内していただいている時に印象に残ったのは、館内で会う人会う人、本当にたくさんの人が、すれ違うたびに菅野さんに声をかけていたことだ。菅野さんはそれほど多くの人に愛され、そして、道の駅そのものも地域に密着しているということを身に染みて感じた。

そんな菅野さんへ、取材の最後に浪江の好きな場所を聞いてみた。

「山に沈む夕日です。今日もたぶん綺麗だと思います。浪江は西に阿武隈山地があって、あそこは山の高さが大体一緒なんですよね。700m〜800mくらいでずっと同じ高さの山が一直線に繋がっている。だから夕日が沈んでいくとき、空がすっごく広いんですよ。オレンジから赤に変わっていく姿を、海に出て眺めたりすると、『いや、綺麗だな』って思います」

「ただ、一方で、あの夕日が沈む山は今でも帰れない場所です。でも、これだけの豊かな自然がある。そういう視点を持てれば本当にいいなと思ってます。」

 

浪江町・なみえ星降る農園

次に向かったのは道の駅なみえから、車で3分ほど。先ほどテントから眺めていた請戸川の対岸にある『なみえ星降る農園』だ。

『なみえ星降る農園』は昨年2021年の11月にオープンしたばかりの「コミュニティ実験農場」。これまで浜通りの地で栽培されてこなかった作物を中心に、新たな名産品候補として実験的に栽培することを目的にしている。また、作物の植え付けや土づくりなどの作業をイベント的に開催することで、食と農を通じた新たなコミュニティづくりにも取り組んでいる。

取材クルーが指定された場所に到着すると、オーバーオールを着た女性が出迎えてくれた。こちらの方がなみえ星降る農園を管理されている吉田さやかさんだ。

吉田さんは浪江町の出身。ご実家は農家を営まれていたが、原発事故後帰還困難区域に指定されたため、現在は町内の別の場所に住みながら、なみえ星降る農園の管理をされている。

吉田さんは「浪江が本当に好きで、ずっと浪江で暮らしてきた」という、根っからの浪江っ子であり、浪江ラバー。県内で進学し、就職も地元の企業。震災と原発事故で一度避難したあとも、浪江に戻ってきた。しかし、それでも「なにかやりきれていない」感覚がずっとあったという。

そんなとき、東北をはじめとした東日本の食の復興と創造を促進する『東の食の会』の事務局代表を務め、浪江町にも深く関わられている高橋大就さんに出会う。高橋さんと出会ったことで、これまで当たり前だと思って育ってきたこの環境の素晴らしさにあらためて気付かされた。そこで、昨年の7月に新規就農し、自身の農地と『なみえ星降る農園』の二足わらじで農業を始めた。

農園がオープンした昨年11月には、「海の厄介者」とされるヒトデやウニガラを肥料として畑に撒き、ジンの香づけの原料となるジュニパーベリーの苗木を植え付ける作業をイベントとして開催した。ちなみに下の写真は吉田さんにヒトデを畑に巻く様子を再現してもらった様子。こんなふうに楽しみながら畑作業をしていると、人と人とのコミュニケーションが自然に生まれ、畑を中心に人の輪が広がっていくのだという。

そうは言ってもまだまだ新米農家の吉田さん。現在は『東の食の会』が 『スター生産者でありヒーロー』と呼んでいる、東北を代表する生産者に教えを請いながら、ちょっとずつ農業技術を習得しているところだという。実は記事の冒頭で紹介したワンダーファームの元木さんも『スター生産者でありヒーロー』の一人で、なみえ星降る農園の技術指導に携わっているらしい。

まだまだ始まったばかりの『なみえ星降る農園』と吉田さんの農家としてのキャリア。これからの星降る農園について、吉田さんはこんなふうに語ってくれた。

「震災前、浪江ではずっと昔からこの地で野菜を作っていたおじいちゃんとかおばあちゃんがいっぱいいました。でも、震災で浪江を離れてしまって畑を作れる環境がなくなってしまった。そして、避難生活が長引いたこともあって、自分の土地に帰ってくることができないまま亡くなってしまったり、老人介護施設に入る方もたくさんいたんです」

 

「だから、『なみえ星降る農園』はそうした方々の想いを引き継ぐ場所にもしたい。避難先から一時帰宅した地元の人がここを訪れて、土づくりのことを教えてくれたり、伝統野菜の話をしたり… そうやって畑を通して会話が生まれる場所になればいいなって思っています」

吉田さんは、星降る農園の一段丘を上がった場所でも開墾作業を進めている。

「ここは元々畑だった場所なんですけど、避難指示が出ている間に竹の根がはびこって竹林になっていました。仲間に抜根作業を手伝ってもらい、また畑に作業に戻す作業をしましたが、なかなか大変でしたね。これから『天空の畑』っていう名前をつけて、ハウスを建てる予定なんです。空が近いから海の方から日が昇って山に日が沈むまでがよく見えるんですよ」

畑を案内してくれる吉田さんの目は、まさにキラキラと、浪江の空に広がる星のように輝いており、早くも今後の活動が楽しみでならない。

 

1日目の終わりからここまでは、浜通りの中でも特に震災・原発事故の影響がシビアな地域を辿ってきた。しかし、ここで暮らす人たちの姿は、とても生き生きとして、未来へ向かって明るく歩んでいるようだった。さて、3日間の旅もいよいよ終盤。次のページでは、今回のツアーで最北端の地となる南相馬市小高区から、浜通りの山間部、葛尾村、川内村へ。そして旅の最終目的地、東北と関東の境、いわき市の勿来を目指す。

 

vol.3につづく。

 

文:久保田貴大 写真:アラタケンジ

                   

人気記事

新着記事