建築家として地域に関わることで見えてくる世界

長野県・立科町

地方にも拠点を持ち、二拠点生活を続けながら自分らしく働く。
そのために建築家が選んだのは、協力隊員という道だった。

「取材先は『立科町』です」と言われ、「蓼科」の間違いではないか、と思ってすぐに調べてみた。すると「立科=蓼科」であることを初めて知る。合併する際、「蓼」という字が常用漢字になく、「立科」と表記し、現在の「立科町」になったという経緯があったそうだ。

「蓼科」と言えば、白樺湖や女神湖などの観光地があり、別荘が立ち並ぶリゾート地として有名である。立科町は、この「蓼科」がある南部の〝高原エリア〟と北部の〝里山エリア〟に分かれていて、南北を繋ぐように県道40号線が走っている。七千人ほどいる人口の約九割は、北部の〝里山エリア〟に暮らしていて、〝高原エリア〟に暮らすのは観光業に従事している人が中心。

同じ町の中で標高差は八百メートルもあり、まったく違う表情をしているところが面白い。里山エリアには、田園やどこまでも続くりんご畑が広がり、浅間連峰が綺麗に見えた。

町の中心には中山道が通り、かつての宿場や老舗の味噌屋さんなど古い建物が並ぶ。同じ通り沿いに町役場や、「ふるさと交流館 芦田宿」があり、ここが町の中心地であることがわかる。そこから目と鼻の先の距離に、今回の取材先である「町かどオフィス」が見えた。趣ある大きな商店を改装した造りとなっていて、ガラス戸から中の様子がよく見える。中に入ると、立科町で二〇二〇年より地域おこし協力隊として活動している、永田賢一郎さんが出迎えてくれた。

永田さんは建築家であり、もともとあった「藤屋商店」の店舗部分をリノベーションし、この「町かどオフィス」に改修。現在は、ここで移住相談や、空き家のマッチングなど「移住定住」を促進する活動を行っている。平日は立科町で地域おこし協力隊として、週末は横浜でご自身のデザイン事務所で働くという、二拠点生活を送っている永田さん。

「地域の風土をつくるには、外からやってくる『風の人』と地域に根ざした『土の人』の存在が重要だという考え方があります。複数の拠点を持つことで、新しい価値観や、人を土地に運んでくる『風の人』となって、どちらの地域にもよい還元ができたら」と話す永田さんに、建築家として地域おこし協力隊のキャリアを選択された経緯や、二拠点生活から見えてきたこと、これから見据えていることなどお話を伺った。

内側に入って地域と関わる

幼い頃から、夏休みといえば家族で蓼科に行き、自由研究や工作に明け暮れていたと話す永田さん。

「自然に囲まれていると創作意欲が湧いて、一日中何かを作っていました。幼い頃に蓼科で過ごした記憶が、建築の道を志すことになった自分の根底にずっとあるのだと思います」

いつかは、蓼科のような自然に囲まれたところで暮らせたらいいな、とぼんやり頭の隅で考えていたという永田さんだが、それが実現するのはずっと先のことだろうと思っていたと言う。それが二〇二〇年の三月に、突然現実味を帯びることになった。

「横浜の自宅が手狭になってきて、そろそろどこか別の場所で暮らすのもいいのではないか、と考えていました。そんな時に、たまたまHPで立科町地域おこし協力隊の募集を見つけたんです。最初、〝立科町〟というのがどこのことを指すのか、わからなくて、調べてみたらあの小さい頃に行っていた『蓼科』のことだ、とわかって一気に興味が湧きました」

その時、立科町が募集していたのは「移住定住担当」「観光振興担当」という二枠。移住希望者の住居の相談にのることが大きな役割の「移住定住担当」は、まさに自分が今やっている建築の仕事そのものだと気が付き、その日のうちに応募。「立科町に呼ばれていると思った」と永田さんは当時を振り返る。

「建築は地域との関係作りがとても大切です。暮らしている地域の中で、一住民としてどういう場所が、どういう機能を持ってあったら良いかを考えて設計していきたいと考えている一方で、建築家として新たに地域と関わるためには、コンペやプロポーザルといった手段でアプローチするしかないという現状がありました。だけど、この地域おこし協力隊という仕組みだったら、自治体の中に入って、実際にその地域で暮らしながら課題解決に向けて取り組んでいくことができます。外から急に来て、やいやい言うのではなく、内に入って一緒につくっていく。自分が求めていたやり方が、地域おこし協力隊という制度の中で実現できると思いました」

しかし、永田さんは最初、地域おこし協力隊になることに迷いがあったことも打ち明けてくれた。建築家として事務所を立ち上げ、活動をしている途中で、協力隊に参加するという選択が本当に良いのかどうか自信が持てなかった時期があったこと。また、「地域おこし協力隊」というネーミングから、若い人しか参加していないのではないかという不安があったこと。だけど、各地方にいる隊員の活動を調べていくうちにそのような不安は解消されてゆく。いろいろな人が、様々な経緯で着任した土地に住みながら、隊員になって活躍していることを知って、自分が持っていた地域おこし協力隊のイメージが変わり、やはり隊員になって立科町の課題に取り組んでいきたいと決意を新たにしたと語る。

地域おこし協力隊の活動をしつつ、ご自身のデザイン事務所の仕事も平行して行う永田さん。二拠点生活に対する不安はなかったのだろうか。

「最初の町長との面談の時に、自分は二拠点でやりたい、とはっきり伝えました。これからのことを考えると、いろいろな地域との関わり方が増えていくだろうなと思って、二拠点だからこそどちらの地域も俯瞰して見ることができるというメリットを伝えました。あとは、例えば自分だったら、立科のことを横浜の知り合いに伝えて興味を持ってもらうということもできる。ふたつの地域の繋ぐ役にもなれると思いました」

永田さんの意見を聞いて、町長も二拠点生活と兼業を快諾。「自分はこういうことをやりたくて、ここに来た」というビジョンを示すことで、自治体としても任せる仕事がイメージしやすくなる。自分が望んでいる働き方や、関わり方を最初からしっかりと開示することで、ミスマッチを防ぎ、「来てみたけど、思っていたのと違った」という事態に陥らずに済むだろう。「今はほとんどの自治体がオンライン面談という形で、協力隊希望者との面談を実施していると思うので、そこで希望をしっかり伝えることが大切だと思います」

不利な状況をどう捉えるか

いよいよ立科への移動が決まった永田さんだが、緊急事態宣言の影響で一ヶ月以上もずれ込むことになった。社会情勢が不安定な中、慣れない場所で暮らすことや、はじめての二拠点生活を送ることに不安もあった。だけど立科町に来て、里山の美しい景色を見たときに「自分はここに来てよかったんだ」と思うことができたという。

着任してから、最初に取り組んだのは空き家バンクに、空き家の登録を促進する仕事。町に二百〜二五〇件ほどの空き家が出ているのに、空き家バンクへの登録はほとんどないのが現状だった。これをどう改善したらよいか考えた末、まずは空き家の活用事例を所有者の方に見てもらい、具体的なイメージを持ってもらうことが大切だと考えた。

「町の中に空き家の活用事例がないので、所有者の方は古くなった自分の建物のどこに価値があるのか、それをどう活用できるのかといった具体的なイメージが持ちにくいのだと思いました。そんな中で『空き家を活用しませんか?』と呼びかけても、『うちは古いから取り壊すつもり』とまだ使える建物を諦めてしまうことが多々あります。空き家バンクという制度自体がまだまだ知られていないという現状もあります」

そこでつくられたのがこの「町かどオフィス」である。永田さんは「藤屋商店」という町の中心にある建物の一階店舗部分が空き家になっていることに着目した。お店自体は十数年前に閉店しているが、町の人は「藤屋商店」と言えばすぐに場所がわかるくらい馴染みのある建物で、協力隊の活動拠点である「ふるさと交流館 芦田宿」が目と鼻の先にある。この場所をうまく活用することで、実際に古くなった空き家がこんな風に使えるのだという事例を町の人に見てもらえると考え、町に提案した。だが、この建物には水回りがなく、トイレも老朽化のため撤去された状態だった。良い立地条件にも関わらず、借り手が見つからなかったのは水回りの工事はコストがかかるということが原因のひとつだろう。

「こうした一見すると不利な状況をどう捉えるかが新しい場所をつくるヒントになる」と永田さんは考える。

「この物件は、徒歩十五秒のところに『ふるさと交流館芦田宿』があります。トイレを使いたい、となったらそこを利用すればいいし、飲み物が飲みたくなったらすぐ近くの『はじまるカフェ』に行けばいい。そうすることで町には人の往来が生まれます」

ひとつの建物がすべての機能を備える必要はなく、周辺環境に頼ることで建物は活路を見出すことができる。あるものを活かし、残すべきところは残す。本当に変える必要があるものだけ、あたらしくするというやり方で「町かどオフィス」は完成した。椅子や、ディスプレイ用の什器は周辺の施設で廃棄予定になっていたものを救出してきて使用。「明るい雰囲気で、人が入りやすい場所にしたい」という思いから照明だけは変更して、総工費はなんと、三万円。掃除をして、物を整理し、位置を変える、それだけで場所には新しい空気が流れ込む。

この「町かどオフィス」の主な役割は三つ。空き家の所有者と、空き家を探している人の相談窓口となること。改修計画のある物件の模型制作や、簡単な家具を補修する工作スペースとしての利用。そして、空き家から回収した古道具や小道具を展示する、というもの。「町かどオフィス」ができてから、ふらっと立ち寄って相談をしていく人が増えたという。

さらに永田さんは、地元の高校生に空き家のことを知ってもらい、関心を持ってもらうために出張授業を行っている。空き家は元を辿れば、各家庭の問題。若い頃から関心を持ってもらうことで、両親や、祖父母と空き家について考えるきっかけをつくれたらと話す。また、空き家所有者への情報発信として、地元のテレビに出演し、移住希望者にはどんな人がいるのか紹介する取り組みも行っている。接点がない移住希望者をすぐに受け入れて、空き家を貸すことはやはりハードルが高く、不安を抱える所有者も少なくはない。そこで、番組の中で移住希望者の情報を伝えることで、所有者と移住希望者をつなぐ役割ができたらと考えている。このような取り組みはローカルな土壌があるからこそ力を発揮していくものだろう。建築家として、目の前にある環境をどうしたら一番効率的に利用できるかを考えることができる永田さんの強みは至る所で発揮されている。

あたらしい賃貸のかたち

そして、永田さんは昨年、空き家バンクに登録された物件を自ら賃貸し、自宅兼店舗として使えるように改修を進めている。外から移住して来た人がどのように空き家を活用するのか、という事例を示したいという理由の他に、空き家を賃貸化する際の〝あたらしいモデル〟をつくれないかと考えている。

「空き家になっていた物件を七年契約で借りました。一年目は家賃をゼロにしてもらい、翌年からは格安の二万円。だけど、内装を自分で改装するため、工事費はすべて自己負担です。七年目にはきっちり綺麗になって住みやすい状態で借主に返却します。持ち主からすると、ただ貸しているだけで、空き家がアップデートされて返ってくる。そうすると、貸す側も意欲的になる人が増えるし、そこを借りたいという人も増えるという狙いがあります」

空き家について考えたときに、所有者にとってメリットが感じられないとなかなか関心を持ってもらえない。一方で、地方移住者にとってはいきなり物件を購入するのはハードルが高く、「まずは賃貸から」という声が多い。永田さんが考えたこの賃貸のモデルは、両者の希望をうまく汲んだまさに〝あたらしい賃貸のモデル〟と言うことができるだろう。

七年後に物件を返すということで、任期が終わった後も立科に関わり続けるモチベーションがある。建築家として、長くその土地に根ざしてやっていくための最初の三年間としてどういう関わり方が良いかを考えた結果、地域おこし協力隊という仕組みが一番しっくりくるものだったと永田さんは話す。

「空き家の問題はどの地域でも大きな課題となっているし、これからますます増えていくことが予想されます。その課題にすぐ取り組める即戦力として、建築やまちづくりに携わる人にもっと地域おこし協力隊という選択に目を向けて欲しい」

実際に暮らしてみると、この町に何が足りないのか、一住民として何が欲しいのかわかってくる。そういった住民としての視点に加えて、二拠点生活で得られた俯瞰する視点のふたつを持つことができる。これからは、移住や、二拠点生活のハードルを下げていきたいと話す永田さんは、「無理をしないことが大事」と考えている。

「今まで、移住や二拠点生活、お店をはじめる場合なんかもそうですけど、あたらしいことを始めようとするときに、お金の問題はやっぱり大きくて、ハードルがぐっと上がってしまう。僕が横浜でシェアキッチンを運営していて思ったのは、シェアをすれば無理なく続けることができるということです。立科町は若い人が少ないから、少しでも興味を持ってくれた人たちが、週末だけお店を出してみたいとか、試しに住んでみたいという人たちに参加してもらうハードルをどれだけ下げていけるかを考えて動いていきたいと思っています」

中途半端でいいんですよ、と言って笑う永田さんの言葉を聞いて、こちらまで肩の力がするりと抜けた。自分がやりたいことを、やりたいペースでやる。自分が好きな土地で働いて、地域の人の役にたつ。永田さんはまさに、これからの時代の働きかたを自ら実践し、やさしく共有しようとしてくれているのだと感じた。

「町のなかには関わりしろがいっぱいあるから、まずはその地域に入ってみるのもいいと思います。僕は、建物だけではなく、その土壌となる町から関われることができておもしろいです」

日本の原風景のような景色がひろがる立科町を眺めながら、たしかに、あたらしい風は吹いている、とそう思った。

 

文:星野文月 写真:横澤裕紀

 

立科町移住定住支援サイト 旅する移住

永田賢一郎   YONG architecture studio

                   

人気記事

新着記事