〝乗り越えていない〟漁師たちは
有事に向き合い続ける

宮城県石巻市 フィッシャーマン・ジャパン

宮城県石巻市に、漁師団体「フィッシャーマン・ジャパン」はある。
震災後の漁業を支えるべく生まれた彼らは、〝有事〟に向き合い続けてきた。
コロナ禍においても、彼らは変わらず一つの〝旗〟を目指す。
有事をものともしない彼らのビジョンを、石巻の浜で語ってもらった。

コロナ禍の漁業、それぞれの悩み

「今日の海、ホヤの味するでしょ」。ウエットスーツに身を包んだ長谷川さんが、波にもまれながら声を張る。取材初日、筆者は宮城・石巻の海へ入っていた。突然のサーフィンの誘いに戸惑ったが、話を聞くうちに合点がいった。「俺は少し前までは泳げなくて、海にも入れなかったんだよ。でも入ってみると、海の解像度がグンと上がった」。そう話すのは、一般社団法人フィッシャーマン・ジャパン(以下、FJ)の事務局長・長谷川琢也さん。ヤフー株式会社に籍を置きつつ、二〇一四年に同団体を立ち上げた。それ以来、水産物の新しい販路拡大や、担い手育成事業などを通して、石巻の漁業に尽力してきた。石巻に移住してからの八年間、彼はその身をもって海を感じ、漁業に携わる人々と関わり続けている。

海から上がり、案内されたFJの事務局で話を聞いた。「今回のコロナの影響は、本当に港や船によってバラバラ。困っている漁師もいれば、家で食事する人が増えたからスーパーへの卸売りが順調で、むしろ儲かっている魚屋もいる」

新型コロナウイルス感染症の拡大が最初に衝撃を与えたのは、「飲食店」だったと長谷川さんは話す。「FJは東京・中野で『魚谷屋』という居酒屋を運営していて。三月末の緊急事態宣言をきっかけに、無期限休業を決めた」。七月中旬現在、店は未だ休業状態にある。「魚谷屋は漁港からたくさんの水産物を仕入れていた。休業すれば仕入れも当然ストップする。同じような飲食店は全国にあるから、飲食店中心に卸していた魚屋さんは大打撃なんだよ」

店が閉まれば、魚屋は売る目処が立たない。しかし、漁師は魚を獲らなければお金を稼げない。需要より多く獲れた魚を、安く売る日々が続く。「漁を続ける船もあれば、『海に出たほうが損だ』と今シーズンの漁を見送るところもあった」。船を出すにも人件費と燃料代がかかる。「このコロナ禍をどう乗り切るか?」の問いに正解はない。目まぐるしく変化する状況の中で、従業員の生活や自分たちの事業を守らなければならない。それぞれの船や団体が、自らの〝守備力〟を試されることになった。

魚はネットで売りにくい、をチームで変える

そもそも漁業とは、多くの職能が手を取り合って成り立つ産業だ。魚を獲る漁師、買い取る市場、仕入れた魚を売る魚屋、商品に仕上げる水産加工業者。これだけ複雑に繋がっていれば、有事に負の連鎖も生まれやすいのでは? とも思える。しかし、FJの考えは違った。

「ウチには、漁師、魚屋、水産加工業、飲食店、あとは漁業の魅力を伝えるカメラマン、デザイナー、編集者、ライターまで、漁業に関わるほぼ全ての役割がチーム内にいる。彼らが組み合わさるから、柔軟な対策を打ち出せる」

彼らは、漁業の縦割り構造を嫌った。漁師も魚屋も、漁業に携わろうとする全ての職業人を分け隔てなく「フィッシャーマン」と、そう呼んだ。それは、名ばかりの仲間意識ではなかった。

コロナ禍の問題は、飲食店の休業で「販路が減った」ことだった。その状況を見たFJメンバーは、「また、ECをやろう」と思い立つ。困窮する水産業がECに活路を見出したのは、今回が初めてのことではない。二〇一一年の東日本大震災直後、ECサイト「復興デパートメント」が立ち上げられた。当時の立ち上げメンバーの多くは今も石巻に残り、FJで働いている。震災を乗り越えたフィッシャーマンたちも、今も同じ港にいる。

「震災の時も、ただの『助けてください』では駄目だと思っていた。応援の文脈に依存せず、漁業や地域の魅力をECで伝えることが大事だと。コロナ禍では世界中が被災者で、全てが応援の対象。今回も、『助けてください』では意味がない」。そんな中、突破口を作ったのは、真っ先に打撃を受けた飲食店の仲間だった。

居酒屋「魚谷屋」の逆襲

「『魚谷屋』の店長、ヒロが『今、チャンスなんちゃう?』って言い出して。彼は元々、魚食文化を家庭に広めたいと思ってきた人。『家にいる時間が長い今なら、魚を捌いて食べる時間もある』と、YouTubeで魚の捌き方を教えるようになって」。そして、世はリモートブーム、Zoomの隆盛。魚捌きの伝道師と、卸先の見つからない魚屋が揃った。

「それらを組み合わせて、オンラインお魚捌き教室付きの、鮮魚BOXを販売し始めたんです」。鮮魚入りのボックス(三二四〇円〜)を購入すると、魚谷屋の店主・魚谷浩さんからZoomで捌き方の手ほどきを受けることができる。この取り組みは多くのメディアに取り上げられ、漁師や魚屋たちの新しい販路となり、彼らを支えた。

「魚はネットで売りにくい。でも今まで踏み込みきれなかった〝参加型の魚食体験〟に、コロナの状況をうまく利用して踏み込めた」。異なる職能の仲間が集まり、有事に立ち向かう。一見すれば簡単な構図にも見えるが、彼らがチームになるまでの道のりは、決して平坦ではなかった。「今この街で漁業を続けている人たちは、震災を乗り越えた人たちだから。フィッシャーマン同士の繋がりが生まれたのは、あの頃から」

店と魚屋、魚屋と漁師の関係

「こういう立場だから、俺がメディアに取り上げられがちだけどさ。FJには、俺より守備力が高いメンバーが山ほどいるよ。それこそ、震災の時にも守備力を発揮したような」。そう言う長谷川さんと共に車で向かった先は、かつて東洋一と呼ばれた石巻魚市場。そのそばにある魚屋に一歩入ると、巨大で平らな水槽がドシンと据えられ、周囲に氷入りのケースが積み上がっている。その中で一人の男性が、腕に抱えた魚の頭へ、静かにワイヤーを突き立てていた。

活魚・鮮魚の販売と流通を担う(株)ダイスイの代表取締役、大森圭さんは、魚を美味しく保つ技術「神経締め」の専門家でもある。その技は全国の高級料理店からも注目を集め、毎日のように注文が届く。「多くの飲食店が休業して、一時はどうなるかと。取引先の料亭が持ち帰りのお弁当を始めてから、また高級魚を買ってくれるようになって。きっと応援の意味もあったはず。いいお客さんに救われましたね」。そう語る大森さんを眺めながら、長谷川さんは目を細める。

「こう言うけど、この人も震災の時は〝いいお客さん〟をしてたんだよ。港も会社も全部流されて、自分だって大変なのに『必ずウチが買い取るから、ちゃんと漁に出ろ』なんて漁師たちをけしかけて、水揚げされた魚を買い支えた」。大森さんは誇らしさを抑えたような、変わらない声色で答えた。「あの時に俺がやったことは何だろうって思うんですけど、当たり前のことなんですよね。漁師が魚獲って来ないと、俺たちも仕事できないから」。一朝一夕では生まれないフィッシャーマンたちの関係性が、有事の際の連帯を可能にしていた。

震災後から、ずっと考えられてきたこと

今回の取材で、驚いたことがある。漁師たちに会うと誰もが必ず、「いい時もあれば、悪いときもある」と静かに言うことだ。筆者の印象では、コロナ禍の都会では「怒り」が最も身近な感情だった。しかし海に関わる人々は、どこか今の状況を受け入れているようにも見える。そう長谷川さんに話すと、「漁師は自然相手だから」との返事。「予測できない自然に、順応するのが仕事だからね。人間がどうにもできないものがある、って知ってる人は強いよ」

この数年間、長谷川さんは数多の漁師と出会ってきた。ある時は運営するウェブメディア「Gyoppy!」で漁師たちの活動に光を当て、ある時は、受け入れてくれる漁村に未来の漁業の担い手を送り込んでいく。

そんな長谷川さんの人生と「漁業」を引き合わせた張本人も、石巻の漁師だった。FJの代表を務める十三浜のワカメ漁師、阿部勝太さんだ。彼は同じ浜の漁師たちと共に会社を作り、市場以外の多様な販路を開拓した。販路を複数持っておくことで、有事の際にも潰れにくくなる。これまでFJが取り組んできた「漁業の六次産業化」にいち早く乗り出した人物だった。

「震災後、港や船が流されてみんなの心が折れていた時に、勝太は目をキラキラ輝かせてこれからの漁業を語ってた。いつの間にか、そういう漁業の未来を考える若手漁師たちと出会うことが自分の中で大切な仕事になった」と語る長谷川さん。FJのルーツでもある阿部さんだが、「ECはずっと使える解決策にはならない」と話す。

「ひとつの船や港を救う分には、いい手段だと思います。ただ、〝価値の高い魚をECで購入する〟という客層が、これから先に残るかはわからない。世の中は不況へと進むから。本当に漁業を良くするなら、量販店と消費者の意識を変えないと」。この言葉を聞いて、はっきりと感じた。石巻で漁業を生業にする彼らにとって、今はまだ「何も乗り越えていない」のだと。漁業の未来を変えるためのFJの活動も、有事を切り抜けるための販路拡大も、全て震災後から今まで、ずっと考えられてきたことだ。コロナ禍は、漁業の問題に取り組む彼らに立ちはだかった一つの障壁にすぎない。

阿部さんは、自らがFJの活動に取り組む理由を語ってくれた。「親たちが『継ぐな』と言うのが、これまでの漁業でした。『お前は勉強して、もっと稼げて安全な仕事に就け』と。自分たちの息子に、そうは言いたくない。格好いい職業だって、背中で見せたいんですよね」。FJが生まれた背景には、暮らす土地の生業を、誇りに変えたいという思いがあった。

旗を掲げて、これからまた三十年

浜から街へと帰る車内で、長谷川さんは昔の話をしてくれた。「二〇一四年にFJを立ち上げた時、メディアに引っ張りだこだったんだよ」。取材を受け、イベントに出店し、水産物を売ればその場に大行列ができた。「だけど、『俺らが伝えたいこと、この行列の人たちに伝わってるのかな』って。漁師のみんなも思い始めた」。当時は、多くの人が希望を求めた。「現地に入って大きいことをしてくれる〝震災ヒーロー〟みたいな人たちが大勢いてさ。でも数年たって、少しずつ去っていった。役目を終えた人たちもいるけど、一瞬だけ注目される『打ち上げ花火』みたいな活動も多かった」

自分たちは〝打ち上げ花火〟ではいけない。違和感を感じたメンバーは、毎週集まり、時に血気盛んに喧嘩をしながら、自分たちが掲げるべき旗(=ビジョン)について語り合った。そうして生まれたのが「新3K」と「フィッシャーマンを千人増やす」という旗だ。「この旗があるから、柔軟に動けた。迷ったら『それってどう新3Kなの?』、『フィッシャーマンを増やすことに繋がるの?』って立ち返ることができるから」。六年経って、FJの事務局にもメンバーが増えた。職業や住む浜が違えど、同じ仲間だ。旗のために激論を交わし、家族のように食卓を囲むことも少なくない。「強い旗があるから、仲間になれた。『TURNS』は、漁業を守ろうとする僕らに『守備力が高い』と言ってくれたけど、それはこの旗と仲間のおかげだと思う」

今やすっかり「石巻の人」になった長谷川さんだが、最初は少し違った。「立ち上げの時に驚いたことがあってさ……漁師の平均年齢って、だいたい六十歳とか六十五歳なのね。でも、俺がいたIT業界では『四十を越えたら引退』って言われてきた」。FJを立ち上げた時、長谷川さんは三十代後半。数年で次世代に引き渡すことも念頭に、活動を始めた。「自分たちの旗が決まった時に、漁師や魚屋のみんなに言われたの。『このチームで、この旗の下であと三十年以上は仕事ができる。それだけ時間があれば、絶対、漁業は変わる』って。俺、びっくりして。腹の座り方が違うって思った。逃げらんないなって」。そう笑う長谷川さんは、今年で四十三歳になる。石巻の漁港の中では、まだまだ若手の年齢だ。

六年間掲げた旗のもとには、震災を経験していない世代も集まり始めた。来年には、二十二歳と二十四歳のメンバーがFJに仲間入りする。既に石巻に住み込む彼らと、取材旅行の間に何度も酒を交わした。「漁師を見て、格好いいと思った」と純粋な目をして語る彼らは、FJが生み出そうとした「漁業は新3Kだ」と信じる若者たちの第一世代ではないだろうか。きっと彼らは、これから時間をかけてフィッシャーマンになっていく。

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