地元で挙げるウェディングの意義

石巻ウェディング

宮城県石巻市を中心に、ウェディングのトータルプロデュースを行う「石巻ウェディング」。
まちの人たちとゼロから一緒につくりあげる手作りの結婚式は、口コミなどで評判を呼び、ひそかな人気だ。
地元のさまざまな職人たちが協力し合うことで、どんな価値が生まれるのか。

地元で挙げるウェディングの意義

「うわべの結婚式」へのカウンターとして

型にとらわれない、完全オーダーメイドのウェディングをプロデュースする石巻ウェディング。主宰するのは、石巻出身、東京や横浜でフリーの結婚式司会者として活動していた豊島栄美さん。

「友人とおしゃべりするように新郎新婦と話し合うところから、ウェディングのプロデュースは始まります。というのも、二人が何を伝えたいかによってウェディングの内容は変わるからです」

お世話になった人たちへ感謝を伝え、おもてなしをする。シンプルだけれど、そうした想いが軸にある。だからこそ、豊島さんは地元でウェディングを挙げることにこだわる。

「そもそも、思い入れのない場所でどうして感謝を伝えられるんでしょうか? その場合、場所選びの基準になるのは金額と見栄えだけですよね。それでは結婚式がうわべだけの儀式になってしまう。逆に、大好きな場所や思い入れのある場所でやることは、それだけで人の胸を打つと思うんです」

石巻ウェディングは、「うわべの結婚式」に対するカウンターとして生まれたと言ってもいい。

「若い世代には、石巻でウェディングを挙げることをカッコ悪いと思う人もいます。なぜなら、石巻で目にするウェディングは、ザ・結婚式とでも呼びたくなるような型通りの結婚式が多いからです。その結果として、結婚式を挙げない人が増えてきました。でも、自分のルーツへの感謝など、結婚式でしか伝えられないことがあるんじゃないかと思うんです」

「地元嫌い」が故郷と和解するまで

今でこそ石巻を盛り上げようと奔走している豊島さんだが、かつては地元が大嫌いだったという。十八歳で上京した後も、里帰りするたびにストレスで熱を出してしまうほどだった。そんな地元嫌いの豊島さんがUターンを決めたのは、東日本大震災がきっかけだった。

「故郷が被災地になってしまった上に、東京は自粛ムードで結婚式の仕事が減少。次第に生活が苦しくなり、苦肉の策でUターンしました。完全にネガティブな理由だったんです。もちろんその時は石巻ウェディングの構想なんてまるでなくて、落ち着いたらまた上京しようと思っていました」

石巻に戻り、OLになって平日は働き、週末は東京でウェディングの司会。そのような二重生活がしばらく続いた。

「司会業って、喋っていないとだんだん言葉が出なくなるんです。それが怖くて、お金にならない仕事も受けていました。いつでも戻れるようにしておきたかったんです」

しかし、あるタイミングで豊島さんは二重生活をやめ、石巻で生きていくことを決断。

「婚約を機に、勤めていた会社をやめたんです。有給を消化しながら、なんとなく石巻で遊ぶようになりました。そうしたら、少しずつこの街の面白さが目に入るようになったんです。その時期に出会った人たちも素敵で、もうちょっと残って何かやってみようかな、と思うようになりました」

心に余裕ができて、街の見え方が変わった。すると、これまで見えなかったことがたくさん見えてきた。石巻では結婚式が極端に少ないということにもその時に初めて気付いた。

「こういう街で育った子供が、将来地元で結婚式を挙げたいと思うはずがないですよね。でも本来、石巻という街は山も海もきれいで、おいしいものがとにかく多いんです。私が生まれ育った街は、結婚式にぴったりな街だったんです」

 

石巻ウェディング誕生の物語

豊島さんは石巻市内で結婚式に関するヒアリングを始め、同時に、創業支援セミナーなどに顔を出すようになっていった。その過程で、やがて石巻ウェディングの中心となる美容師の三浦有貴さんと出会う。三浦さんは当時、震災後に結婚式を挙げられなくなった夫婦のためのブライダルフォトに携わっていた。意気投合した二人に、Uターンしてきた花屋や貸服屋、移住してきたカメラマンやデザイナーなど、想いを同じくするメンバーが、知り合いが知り合いを呼ぶかたちで加わっていく。

そうして石巻ウェディングのコアメンバーが集まった頃、ちょうどヒアリングをしていたカップルが結婚式を挙げることに。それを受け持ったことが、石巻ウェディングとしての最初の仕事だった。

「これだ、と思いました。街ゆく人々が笑顔になって、物理的にも精神的にも本当に石巻が豊かになると感じたんです。ここまで人の気持ちをあたたかくする仕事なんて他にあるだろうかと」

もともと、石巻には技術と熱意のある人たちが点在していた。彼らはそれぞれに自分の仕事で価値を発揮していたが、豊島さんがUターンし、「想いを伝えるウェディング」という視点を持ち込んだことで、点在していた才能はひとつに組み合わさった。その結果、新たな価値が創造されることになった。ひとりでは不可能なことが、他のスペシャリストたちと協力することで可能になる。石巻ウェディング誕生の物語は、点と点がひとつの線に結ばれた物語でもあるだろう。

「この街には、チャンスがたくさん転がっていると思うんです。震災で何もかも壊れてしまったのはとても悲しいことだったけれど、しがらみしかない街に余白が生まれたのは確か。新しい人やコトを受け入れやすくなったと思います」

どの地域にも、その地域特有の職人はいる。では石巻ウェディングのスキームは、他の地域でも応用可能だろうか?

その問いに対して、半分はイエスと言えるだろう。地元嫌いだった人がUターンし、地元の職人たちと組んで新たなサービスを展開し、地域に新しい経済をつくる。そのひとつの理想的なモデルケースであることは確かだからだ。

しかし残り半分は、現時点ではノーと言わざるを得ない。というのも、このスキームにおいては、豊島さんの存在が必要不可欠であるからだ。職人は他の地域にもいるが、豊島さんはここにしかいない。

また、このチームのメンバーのほとんどが同世代で構成されていることも重要な要素かもしれない。豊島さんが自分の力を発揮できるのは、こうしたメンバーに恵まれたことが大きいという。それゆえに、石巻ウェディングとは代替不可能なチームであると言うことができる。そしてそのような代替不可能性こそが、石巻ウェディングのオリジナリティでもある。

「私は、一生をかけて石巻をウェディングの街にしたいんです。二〇二〇年以降はプランナーも育てて、少数のウェディングチームを複数つくるつもりです。そうして他の地域にもどんどん飛んでいけるようにしたい。最終的には、各地域に石巻ウェディングのようなチームができることが理想です」

効率化が進み、まるでファストファッションのように消費される現代の結婚式にあって、石巻ウェディングの存在は、結婚式本来の意義を取り戻そうとする試みなのかもしれない。結婚式とは、そもそも何のために行われるものなのか。結婚とは何なのか。豊島さんの話を聞いていると、結婚することの本来的な意味について考えさせられる。

石巻ウェディングの活動は、誰かとともに生きることや特定の場所(街)で生きていくことについて考えることとほぼ同義の、根源的な取り組みなのだ。

 

文/山田 宗太朗 写真/ミネシンゴ

 

                   

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