365段の石段街が町のシンボルとなっている渋川市・伊香保温泉。この地で2024年まで渋川市地域おこし協力隊として活躍し、現在はフリーランスとして活動する長沼未希さんを訪ねた。アカペライベントの企画運営から地元の人々との交流、そして新たな拠点の創出へ。形を変えながら伊香保の魅力を発信し続ける思いに迫った。

- 伊香保 ACAPPELLA STAIRS実行委員長
山梨県出身。2024年まで渋川市地域おこし協力隊として伊香保温泉で活動後、独立。2022年からイベント「伊香保 ACAPPELLA STAIRS」を主催し、昨年は全国から約1,300人を集客。石段街の「いっぷく館」で交流を創出する新たな取り組みも始めている。
ノスタルジックな温泉街で始めた挑戦
数多の温泉地を擁する群馬県の中でも、伊香保温泉はとりわけ名高い存在だ。万葉集の和歌にも詠まれるほどその歴史は古い。温泉街の象徴である「石段」のルーツは戦国時代に遡る。武将・武田勝頼が傷ついた家臣を癒すため、真田昌幸に伊香保の湯を分配するよう命じて築かせたのが始まりと伝えられている。
「365日、毎日賑わいますように」という願いを込めて365段まで整備されたこの石段は、夜になると表情は一変。電球の明かりと赤提灯が連なるレトロなまち並みが相まって、幻想的な美しさに包まれる。


昭和の時代には隆盛を極めた伊香保のまちも、時代の変化とともに一時は衰退。しかし最近は、昭和・平成ブームの追い風を受け、石段街の空き店舗をリノベーションして若い世代が新たに飲食店を開くなど、再び活気が戻り始めている。
そんな伊香保と長沼さんの縁が結ばれたのは2019年。渋川市地域おこし協力隊への着任が、その始まりだった。

伊香保温泉のメインストリートの石段街には、飲食店や土産物店、そして昔懐かしい射的場など多彩な店が軒を連ねる。
直感を信じて渋川へ。コロナ禍の孤独を救ってくれたまちの温もり
山梨県出身の長沼さんは地元が大好きで、当初は故郷で地域おこし協力隊として活動することを考えていた。しかし、よく知る土地だからこそ、先入観や既存の情報に縛られてしまう懸念もあったという。
「何も知らない場所に飛び込んで、ゼロから経験を積んでみたいと思ったんです。興味のあった観光分野で受け入れ先を探す中で、伊香保温泉の写真が目に留まり、直感的に『あ、ここいいな』と感じました。それまで群馬には行ったこともなかったのですが、県内で4ヶ所ほど目当ての地域を巡ることにしました。初日に渋川市役所の方の案内で伊香保を訪れたら、このまち並みがすごく心に刺さって。協力隊の先輩もとても楽しそうだったので、渋川に行こうと思いました」
観光振興・情報発信をミッションに活動するはずだった長沼さん。ところが、予期せぬコロナ禍が襲い、ほとんど何もできない日々が続いた。当時22歳。社会人経験もほとんどなく、身寄りのない土地にたった一人で飛び込んだ長沼さんを支えてくれたのは、ほかでもない渋川の人々だった。
「着任当時は右も左も分からない状態でしたが、まちの方々が本当に温かく、いろいろなことを教えてくださいました。今とはまた違う盛り上がり方を見せていた温泉街や赤城地区の商店街の思い出話、大晦日になると新年を迎えるために床屋さんの前に行列ができていたこと…。楽しそうに語られる昔のお話を聞くうちに、渋川のまちがどんどん好きになっていきました。このまちの人たちのために、私は動きたい。そう心から思うようになったんです」
そんな長沼さんの思いは、地域おこし協力隊の任期を終えた後も渋川に留まり、活動を続けるという決心へとつながっていった。
伝統の保存と新たな文化の創出。
長沼さんが仕掛ける伊香保の地域活性化
現在、長沼さんは個人事業主として伊香保温泉街の地域活性化に取り組んでいる。その活動の一つが、石段の166段目にある複合施設「IKAHO HOUSE 166」の管理業務だ。築100年を超える由緒ある旅館だった建物(旧市川旅館)を保存するため、専門家による耐震補強工事を実施。2024年、多彩なテナントが入居する新たな文化・商業拠点へ生まれ変わった。長沼さんはこの施設の管理に加え、入居者とのコミュニケーションを請け負っている。



また、長沼さんが地域おこし協力隊時代に企画して立ち上げたイベント「伊香保 ACAPPELLA STAIRS」も、渋川伊香保温泉観光協会と連携しながら継続して開催。例年9月に開催され、石段街の各所をステージに全国から集まったシンガーたちが歌声を響かせるこの催しは、2025年で3回目を迎え、延べ1,300人を超える来場者を集める伊香保の新たな風物詩へと成長を遂げている。



歌い手やボランティアスタッフ、スポンサーの募集をはじめ、イベントの告知、当日の出演順の調整、音響機材の手配、公道の使用許可、ボランティアスタッフのディレクションなどを、長沼さんが先頭に立って行っている。
それにしても、なぜ「アカペラ」なのだろうか?
学生時代からアカペラサークルの演奏を聴くのが好きだった長沼さん。伊香保でイベントをやりたいと考えたとき、真っ先に思い浮かんだのがアカペラだったという。
2019年に一度は企画したものの、コロナ禍で開催を断念。しかし、声をかけていた県内の大学生たちの後押しを受け、2022年に「伊香保 ACAPPELLA STAIRS」を初開催。アカペラ愛好家が集うSNSなどで告知を行い、初回から400人余りを動員した。歴史ある温泉街に、若い世代の歌声が新たな賑わいをもたらした。
「アカペライベントはこれからも続けられる限り続けていきたい」と長沼さん。自分の好きなことと地域資源を掛け合わせ、長沼さんは伊香保に新たな風を吹き込んでいる。
観光客と地元の人が交流できる場を目指してリニューアル。
石段190段目の休憩所「いっぷく館」
長沼さんが2025年から取り組んでいるのが、石段街の190段目にある休憩所「いっぷく館」の活用だ。もともと休憩所として設けられていたものの、椅子が置かれているだけで情報を得られるような場所ではなく、まちの人から「もったいない」という声も多く聞かれていた。
そこで長沼さんは、渋川市地域おこし協力隊に新たに加わったインバウンド推進担当の隊員2人と協力し、観光客と地元の人々が交流できる場として再始動させた。

石段街の中腹にあった公共施設「いっぷく館」を、人が集まる場にすべくテコ入れ。
「190段目はほぼ石段の中間地点。下から登ってきた人が一息つきたくなる場所なんです。石段街には食べ歩きのお店は多いものの、座ってゆっくりできる場所は多くありません。ここで食べたり飲んだりしながら、まちの情報を得て、またワクワクした気持ちで歩き出してもらえたら嬉しいですね」
訪れる人が快適に過ごせるように、館内にはテーブルや椅子、ストーブを配置。伊香保周辺の観光ガイドや、個性豊かなお店やイベントのフライヤーも揃えた。壁には伊香保の歴史を伝える昔の写真を展示し、この界隈のおすすめスポットを案内する手書きの地図も掲示されている。



「この場所を再生するにあたって、周辺の旅館やお店の方々が気にかけてくださいました。『長い間眠っていた場所を生き返らせてくれてありがとう』と言っていただけたことが、何より嬉しかったです」
近頃は、いっぷく館に立ち寄る観光客も少しずつ増えてきた。先日はアカペライベントで歌った人が、改めて伊香保に泊まりに来て顔を出してくれたという。

手書きのイラストの装飾が来訪者をほっと和ませる。右に描かれているのは伊香保温泉のゆるキャラ「いしだんくん」。
ガイドブックにはない「伊香保の歩き方」
長沼さんは今後、このいっぷく館でカルタ大会など、誰もが気軽に参加できる小さなイベントを展開していきたいと考えている。さらに、いっぷく館を発着点に、長沼さんや地域おこし協力隊の視点でまちの魅力を掘り起こす「伊香保ガイドツアー」も構想中だ。
「伊香保は石段だけでなく裏路地も面白いんです。ガイドブックには載っていない穴場を巡ったり、地元の方から聞いた昔話を伝えたり、名物店主に会いに行ったりと、私たちだからこそ知る魅力を伝えたい。『また来たい』と思う一番の理由は、やっぱり“人”だと思うんです。伊香保の面白い人たちを、まちの代弁者として紹介していきたいですね」

思わず足を踏み入れたくなる路地裏も伊香保の魅力のひとつ。空き店舗に若い世代の新しい店が次々と生まれ、新旧が交わりながら、まちは進化を続けている。
地域おこし協力隊の任期を終えてなお、長沼さんをこの地に引き留めたもの。それは、古くから多くの人々を癒してきた温泉の歴史に、昭和・平成、そして現在の若者やアカペラ愛好家たちによる新しいムーブメントが重なり合う重層的な時空間かもしれない。
どの時代も変わらず、伊香保を愛し守り続けてきた人々の思い。そのバトンを受け継いだ長沼さんは、これからも彼女にしかできないやり方で伊香保の魅力を伝え、ファンの輪を広げていく。
渋川市 伊香保温泉に興味を持つ方へのメッセージ
長沼さん 伊香保温泉のロープウェイに乗って山頂まで行くと、展望デッキから関東平野を一望できます。その絶景はぜひ見てほしいですね。石段を登り切った先にある伊香保神社の奥には、あまり知られていませんが、飲泉所や露天風呂があり、こちらもおすすめです。また、朝7時に開店して午前中には売り切れてしまうお饅頭屋の「大黒屋」さん。そこでおばちゃんに、ぜひ伊香保のお話を聞いてみてほしいですね。
伊香保には今、若い人たちも入って来ているので、何かやってみたい人にはきっと面白い場所だと思います。まずはイベントやいっぷく館に、気軽に遊びに来ていただけたら嬉しいです。
いっぷく館
伊香保温泉の石段199段目から少し入った路地にある無料休憩施設。公衆トイレや休憩室、展示スペースが備えられており、散策の合間に誰でも気軽に立ち寄ることができる。観光案内のほか、伊香保にゆかりのある資料も展示。単なる休憩所にとどまらず、地域の歴史や魅力に触れられるスポットとなっている。
群馬県渋川市伊香保町伊香保65-2
開館時間: 9時〜18時(夜間用トイレは24時間利用可能)
定休日:無休
IKAHO HOUSE 166
石段街166段目に建つ旧旅館をリノベーションして生まれた複合施設。1~2階は飲食フロア、3階・4階にはお土産店や伝統工芸の展示スペース、レンタルスペースなどがあり、伊香保の文化や食を楽しみながらゆったり過ごすことができる。地元作家による展示やワークショップも行われており、伊香保の過去と現在をゆるやかにつなぐ拠点として、訪れる人に新しい伊香保の楽しみ方を提案している。
群馬県渋川市伊香保町伊香保字香湯乙68
営業時間・定休日:店舗により異なる
ホームページ:https://sekiraku-ikaho.co.jp/
インスタグラム:@ikahohouse166

