幾多の滝や温泉、湧水に恵まれ、日本で最も美しい村の一つに数えられる中之条町の六合(くに)地区。山深いこの地に佇む築約200年の古民家を改装したアトリエ兼ギャラリー兼カフェ「あるところにないところ」で、相田哲也さん・永美さんが紡ぎ出す暮らしと創作の世界を訪ねた。
相田哲也さん・永美さん
千葉県→中之条町(2023年移住)
哲也さんは不動産業界でのキャリアを生かし、中之条町の地域おこし協力隊として空き家活用や移住定住支援に取り組む。アーティストである永美さんは制作活動の傍ら、予約制のカフェを運営。国際現代芸術祭「中之条ビエンナーレ2025」にも出展。夫婦共通の趣味は車中泊。
午後3時。
開け放した2階の窓から
山を眺めて飲むお茶が最高の安らぎ。
六合の好きなところは“全部”。山の中から見る山の景色は独特で、飽きることがありません。季節ごとの景色が素晴らしく、一面緑や紅葉になる様子は本当に美しい。自然の変化を肌で感じられます。
地元の方々とのあたたかな交流も魅力の一つで、朝早くから「おはようございます」と声をかけてくれたり、野菜を持ってきてくれたり、縁側に置いておいてくれたり。まだ山の生活に慣れていない私たちを、地域のみなさんがやさしく気遣ってくださるんです。

解体予定だった築約200年の古民家を借り受け、プロの力も借りながら哲也さん自らリフォーム。夫妻の生活の場であると共に、アトリエ・ギャラリー・カフェとして使用。
――移住のきっかけは、やはり中之条ビエンナーレですか?
永美さん|それが違うんです。ビエンナーレも知らなかったくらい(笑)。移住後に中之条の作家さんやディレクターさんにもつながって、アートの世界を知っていきました。それまでは絵本作家になりたいという思いからスタートして、絵を描いたり、絵本をつくったりしていました。
哲也さん|きっかけは、千葉で料理の仕事をしていた友人がこの近くの赤岩地区に移住したことでした。僕たちは車中泊が趣味で、お盆休みにその友人を訪ねたんです。すると、この環境が二人ともすっかり気に入ってしまい、「ここで暮らしたい」と思うようになったんです。
移住を決めてからも、半年ほどは月に2回くらい車中泊で通い、雪の季節も含めて様子を見てから引っ越しました。
永美さん|以前も植物のある暮らしはしていましたが、ここまで自然にすっぽりと包み込まれる生活をしたことがなく、惹かれるものがありました。
――以前から、いつかは地方へ移住しようと考えていたのですか?
哲也さん|考えたこともありませんでした。千葉に新築の家を買っていましたし。でも、六合が気に入って調べてみると、ちょうど中之条町の地域おこし協力隊の募集があり、応募したら採用されたんです。

2階の窓辺で、緑を眺めながらまったりと過ごす時間がお気に入り。
哲也さん|住まいを探しに空き家を見に来た時、最初に案内されたのがこの家でした。二人とも、一目で「ここだ!」とピンと来ました。千葉の家もコロナ禍で戸建ての需要が伸びていたのですぐに売れ、移住しない理由がなくなってしまったんです。
でも、最終的な決め手は人ですね。この家を見に来た時、近所の方が「寄ってきな」と声をかけてくださって、お茶やお菓子でもてなしてくれました。不動産の仕事をしていた経験から、移住先で人間関係がうまくいくかどうかが何より大事だと分かっていたので、その懸念が解消されたのは大きかったです。

六合の山々で採集した自然物と永美さんの作品が心地いい空間をつくっている。
――カフェは、なぜ予約制に? どんなお客さまが来店されますか?
永美さん|ここは静かな集落なので、不特定多数の方が出入りすると、周辺の方々の生活にも影響が出てしまうと思ったんです。それに、私は飲食業が本業ではなく、創作活動がメインなので、予約して来てくださったお客さま一人ひとりを、丁寧におもてなししたいと考えています。このカフェは「ゆっくり過ごしてもらう」ための場所。景色や作品を眺めながら、それぞれの時間を静かに楽しんでいただけるようにしています。



予約来店の入場料1000円(変動あり)をいただく代わりに、永美さん手作りの米粉のクッキーと、コーヒーまたは季節のお茶を提供している。
永美さん|予約制だと敷居が高いかなとも思ったのですが、案外そうでもなくて。町外・県外から訪ねてくださる方も多いです。インスタグラムや東京での展示で知って来てくださる方もいらっしゃいますし、中之条ビエンナーレをきっかけに足を運んでくださる方もいます。
――「あるところにないところ」という名前の由来は?
永美さん|千葉にいた頃、「あるところにないところ」という名前で、自宅の庭で雑貨屋のようなお店をゲリラ的に開いていました。オープン前にディスプレイして、終わったらすべて片付けるという、“あるようでないような”お店だったんです。
作品のコンセプトとしても、「あるところにないところ」という言葉をよく使っていて、存在感を出したいけど出したくないという矛盾の中で制作しています。自然は存在するものですが、例えば街路樹のように、意識しないと認識できないものもあります。意識して見ようとしてくれる人にとって存在するものでありたいという感覚です。
ここも山の中で、一見何もないように見えますが、価値を見出せる人にとっては美しいものばかりがある場所。自分の作品もそうありたいと思って、自然の物を使い続けています。

石や植物に空想上の生きものが寄り添う独特の世界観が、永美さんの作品の魅力。
――六合に移住して最初に取り組んだことは?
永美さん|まずは空間づくりから始めました。私にとって制作は日常の延長線上にあるもの。その先にお客さまがいて、さらにその先にお客さまの日常があります。だからまず、自分たちの「巣作り」からでした。この地域にどんな素材があるのかを探したり、譲ってもらった材料をどう生かせるか考えたりしながら、どうすれば気持ちよく過ごせるかを大切に、少しずつ環境を整えていきました。

友人の設計士に図面を引いてもらい、日が入らず暗かったキッチンを哲也さん自ら施工。
永美さん|この建物の良さをそのまま伝えたいという気持ちが強くて、自分たちの個性を前に出すというよりは、ほんの少し手を加えることで、建物と自分たちの両方が心地よくいられる空間を目指しました。
哲也さん|トイレやお風呂は改修済みだったのですが、キッチンが古いままで風通しも悪かったので、そこからリフォームを始めました。住みながらの作業だったので、半年くらいはキッチンのない生活。近くの湧き水をタンクに汲んできて使ったり、和室にガスコンロを置いてご飯をつくったりしていました。お風呂は無料の温泉に通い、キャンプ生活みたいでしたが、車中泊で慣れているので、それも楽しめました。

古民家での冬を凌ぐため移住後に薪ストーブを設置した。薪割りは哲也さんの趣味。
――雪かきなど地域の共同作業はどうされていますか?
哲也さん|除雪車が入れない細い道はみんなで雪かきをします。ただ、集合時間には暗黙の了解があって、「6時集合」と言われていても、行ってみるともうみんな始めていたりするんです。寝坊してしまった時は謝りに行き、次の雪かきは誰よりも早く行くようにしています。
集落にはその土地ならではのローカルルールがあるので、知らないことはその都度教えてもらいながら学んでいます。そして、「すみません」ではなく「ありがとうございます」と言うように心がけています。時には叱られることもありますが、それは守ってほしい大切なことがあるからこそ。そういう時ほど、自分から距離を縮めていくようにしています。
――カフェを始める時、地域の方々の反応はどうでしたか?
永美さん|オープン前に集落の人に声をかけて、プレオープンのような形で見に来てもらったんです。「こういう形でお店をやります。住所は公開せず予約制にするので、そんなに人が来るわけではありません」と説明しました。
最初、集落の人たちは私たちのことを「どんな人が来るのか怖かった」とおっしゃっていました。でも、実際にこの家に招いて、「ここは良い所だと思っている、好きだから住みたい」と伝えると、「来てくれてありがとう」と言ってくれるようになりました。予約制で少しずつお客さんが来る形なので、集落の方々も安心されています。むしろ「あんまりお客さんが来てないけど大丈夫か?」と心配されることもあります(笑)。

永美さんが移住して最初に描いた作品。六合の山の木々がいっせいに風に揺れる様子が毛並みのように見え、山自体が大きな獣のようだと感じた感覚を表現。
――この先、やってみたいことや楽しみにしていることはありますか?
哲也さん|地域おこし協力隊の任期があと1年ほどなので、今運営しているコミュニティスペースを続けながら、引き続き空き家問題に取り組みたいと思っています。自分でリノベーションをするのが好きだと気づいたので、空き家を自ら改修して、移住者に賃貸するビジネスができればと。
また、狩猟の免許を取得中で、六合の特産品開発にも取り組んでいます。花豆の缶詰や発酵食品など、高齢化で生産が難しくなっているので、友人と一緒に新しい名物を生み出していきたいと思っています。
永美さん|「自然物と暮らす」「自然物と過ごす」ことをテーマにした空間事業を展開していきたいと考えています。商業施設や宿のロビーなどの空間デザインにも携わってみたいです。この地域には花農家さんも多く、ロスになってしまう花をいただくこともあるので、そうした素材も活かしながら表現の幅を広げていけたらと思っています。

1階は永美さんのアトリエや二人のリビング、寝室として使っている。
――移住を考えている人に、「これだけはやっておいた方がいい」と思うことがあれば教えてください。
哲也さん|実際に足を運んでみるのが一番だと思います。現地を見て初めて分かることが本当にたくさんありますし、僕たちも実際に来て移住するイメージが湧いたから決断できました。できれば季節を変えて、1年を通して訪れてみるのがおすすめです。
移住前と移住後のギャップがあると、「こんなはずじゃなかった」と感じて離れてしまう方もいます。地域住民と移住者がお互いに良い関係を築くためにも、そのギャップをできるだけ減らすことが大切だと思います。
永美さん|こだわりすぎないことが大事。あれもこれもと求めると満足できません。譲れない大切なことを一つ決める。例えば「この庭の景色がいい」というシンプルな理由でも十分。空き家は新築と違って難点があって当たり前なので、こだわりがたくさんあると向いていないかもしれません。この土地に来て、良い所をたくさん見つけられるといいですね。
編集後記
都市部から中之条町の山間部への移住という選択は、相田さん夫妻にとって新たな暮らしの楽しみと創造の源泉になったようです。「あるところにないところ」のコンセプトが示すのは、一見何もないように見える場所に、実は豊かな価値が眠っているという発見。それは移住という選択にも重なるメッセージです。都会の便利さとは違う、「自分にとって、ここがいい」と思える新たな価値観との幸せな出会いを、皆さんも群馬で見つけてみませんか。
ぐんまトリビア
尻焼温泉の川風呂
相田さん夫妻も大好きな六合の「尻焼温泉」は、川の一部がそのまま天然の巨大露天風呂。川の中から湧き出す湯は尻が焼けるほど熱く、野趣たっぷり。近くには屋内でゆったりと浸かれる温泉施設も。
六合の花
高地の冷涼な気候を利用して栽培される「六合の花」は、宿根草や山野草など年間100種以上の切花を出荷する地域の産業。庭先で育てている家も多く、いたるところに花が咲いている。