農業がつなぐ 小さな生産と 小さな消費

徳島県神山町 Food Hub Project

地元食材を使った食堂とパン屋、食品店を営み、小さな経済を生むFood Hub Project。
徳島県神山町で活動する彼らが経済の先に目指すのは、土地の農業文化を残すことだった。

経済を手段に、
「農業を続ける」ことを目指す

「今日の食事は徳島県産のカマスと、ちえさんの所で獲れた空豆のスープと、つなぐ農園の春キャベツのサラダと—」。お膳に乗った色とりどりの料理について話すとき、料理人の口から語られたのは調理法ではなく「どれが神山で取れた野菜か」ということだった。株式会社フードハブ・プロジェクトが運営する食堂「かま屋」では、神山町の農家から仕入れた野菜で、週替わり定食を提供。メニューが変わるたび、その定食の「産食率」を公表している。産食率とは、「料理の何%が神山の食材でできているか」を示す数字。食堂を開くことで、人口約五千百人に満たない神山町に「その土地の人が、土地のものを食べる」という営みをつくり出しているのだ。

といっても、これだけでは今や一般的になった「地産地消」を掲げる店づくりに聞こえるかもしれない。ただ、徳島県神山町で活動する「Food Hub Project」が目指す未来は、単なる地産地消のすこし先にある。土地のものを土地で消費し、地元の経済をつくることで、「次世代の農家を育て、農業を土地に残していくこと」を目指している。「あくまで、経済をつくることは手段だと思います」と語るのは、株式会社フードハブ・プロジェクト共同代表の真鍋太一さん。「神山の農業と食文化をつないでいくためには、地域内でいかに経済を回すかを考える必要がありました。そこで、アメリカで提唱されている『Food Hub』という考え方をこの土地に当てはめると何ができるだろうと」。地域における「Food Hub」とは、主に名前が特定できる地元の生産者たちの食品を、集約、保存、流通、マーケティングすることで農家の能力を強化し、あらゆる需要に積極的に答えるビジネスや組織のこと。この考え方をもとに、株式会社フードハブ・プロジェクト(以下、フードハブ)では農業の担い手育成を中心に、農産物を地域で育て、地域で食べる場所としての食堂とパン・食品店を運営している。起きているのは「地産地消」だが、単に「地元で消費する」以上に「土地のものを食べた人たちが、土地の農業に関わる」ことに期待を込める。食べることから始まる経済と農業の循環は、ある一人の米農家の青年の思いをきっかけに、町ぐるみの活動へと繋がっていた。

米農家に生まれ気づいた
「継ぐ人がいない」こと

米農家に生まれ育ち、町役場で働いていた白桃さん。「自分たちのつくったお米を、町の人たちが食べてくれている」ことが日常だった彼に、ある日、変化が訪れる。「米農家の父が病気で倒れてしまったんです。その影響で一時期、神山町神領地区のお米の生産がストップしてしまって」。当時、白桃さんのお父さんは地元の米農家のなかでも最年少。農業従事者の平均年齢は、七十歳を超えていた。「思っているより状況は逼迫していたんや、とわかったんです。倒れても後継者がいない農家が、大勢いるんじゃないかと」。自分がもし継いだとして、同じように病気で倒れてしまえば、その次に農業を担う人はもういない。自分一人の力では、解決できないとわかった。「農業者が生まれる仕組みをつくって、なんとかしないといけない」。そう考えた白桃さんは、後に真鍋さんと出会い町役場と公社、民間企業からの出資により、『株式会社フードハブ・プロジェクト』を立ち上げる。

フードハブが活動を通して最初に行ったことは、農家さんと信頼関係をつくり、農地を借りること。「農地所有適格法人ではないので、自分たちで農地を持つことはできません。そのため、管理ができていなかったり、年々農業を続けるのが辛くなってきたという農家の方々から農地を借りて農業を行なっています」。「つなぐ農園」と名付けたこの取り組みは二〇一六年からはじまり、今では町内の三エリア、全部で約百箇所ほどの畑の管理を引き受けている。「田舎では、農地を荒らすのはタブーなんです。管理できていない畑には虫や鳥獣が集まって、他の畑に迷惑をかけるかもしれない。それに、地元の風景に荒れた畑があるのも寂しいじゃないですか」。フードハブが農地の管理を請け負っていくことで、地域のコミュニティを守り、景観も守ることができる。自給自足とも、経済合理性の元に行うビジネスとも違うこの農業のあり方を彼らは「社会的農業」と呼んでいる。

現在は白桃さんを含め、社員と、国の農業従事者育成制度を活用して受け入れた研修生たち、合わせて六名の人員で農地を管理する。社員も研修生も、近い将来に神山町で農家として独立する可能性のある、金の卵たちだ。「中山間地域ならではなんですが、小さな農地がいろんな場所に散らばっているんです」。彼らは車を走らせ、山あいに散らばる農地を手分けして管理する。立ちはだかる問題は管理の大変さだけではない。「小さい生産者の集まりでは、スケールメリットを生むことが難しいんです。大きな市場の経済合理性の中では、どうしても不利になる」

旧来の方法で市場に流通させれば、神山で採れた野菜も『五十円と百円の大根なら、五十円の大根のほうがいい』という、より安い商品を求める消費者の価値観にさらされてしまう。だからこそ、農業を続けていくために別の方向を目指す必要があった。「大量生産の価値観から外れて、町の人たちに『地元・神山のものが食べたい』と思ってもらうことが大切だと思いました」。生産量は小規模なまま、価値を感じてくれる食べ手に向けて、適切な価格で届けていく場所があればいい。「小さいものと小さいものをつなぐ、と僕たちは言っています。この仕組みこそ、神山にあっているんじゃないかって」。その思いは、地域の食堂やパン屋の事業へとつながっていく。

神山産の定食が、
地域に習慣を生む

二〇一七年、神山で採れた野菜と人々をつなげる「小さい消費」の場所として生まれたのが、冒頭で紹介した食堂「かま屋」と「かまパン&ストア」だ。「かまパン」では毎朝多くの種類が店頭に並ぶ。定番の食パンから、地元野菜を使った惣菜パン、季節のよもぎパン、ピザ、ドーナッツに至るまで幅広い品揃えだ。「今はコロナ禍で減っているけれど、関西からわざわざ車で来てくれるお客様もたくさんいます」と白桃さん。「神山町にやってくる関係人口や交流人口も合わせると、一万人くらいの商圏にはなるはずなんです。小さな消費者に届ける、ということを大事にしながら、けして経済的な側面を考えてないわけじゃないんですよ」。店内には徳島県内で作られる調味料やうつわ、神山町にあるブルワリーのビールなどが並び、「徳島の食文化」に触れるきっかけをつくっている。「パンは東京のお店にも出荷しています。ただ、大事にしたいのはやはり『地元に食べに来て欲しい』というところですね」

いっぽうの食堂「かま屋」の価値は、「農作物の卸先をつくる」だけにとどまらない。真鍋さん曰く、週替わりの定食は「神山の食材を披露する場になっている」。お膳に並ぶ料理を見れば、神山の野菜の旬や、農家さんが神山で何をつくっているのか? ということが一目でわかる。これもまた、土地の食材に価値を見出す「Food Hub」的思想から生まれたもの。

「実は、この『定食スタイル』に変わったのは二〇二〇年の五月からです。メニューは、世界的なオーガニックブームを牽引したカリフォルニア州のレストラン『シェ・パニース』の元料理長、ジェローム・ワーグ氏が見てくれています」。真鍋さんと親交のあった彼は「皿の上の仕事は農家が半分、料理人が半分」だと語り、神山の野菜をシンプルにおいしく食べるためのレシピを考案した。「今のスタイルに変わってから、農家や町の人たちがより喜んでくれるようになった気がします」。そう語るのは、かま屋で料理長を務める清水さん。「これまでは、和風のお惣菜とお味噌汁、白ごはんというとても家庭的なメニューでした。でも、ジェロームの考案した新しいレシピでは、シンプルかつ日本の家庭では見かけない調理法や、珍しい調味をするから、神山の人たちにとって〝家ではつくれない新しい料理〟になったみたいで。農家さんたちも、自分の納品した野菜が『こんな味にもなるんか!』って驚いて食べに来てくれるようになったんです」

経済を作るために生まれた食堂が、地域の人々にとっての「神山の食材」の新しい価値を見出すきっかけになった。「ここの料理を食べれば、地元でとれたものをシンプルに料理して食べるのが、いちばんおいしいものであると神山町の人たちに伝わる。そうすれば地域で育てて地域で食べる、という考え方は習慣化されていくし、地元の人が自然と地元の食材に手を伸ばせるようになると思うんです」と真鍋さん。食堂のおいしい定食が、神山の人々の「地元の野菜を食べる」習慣を少しずつ育てている。

特定多数の町民に向けて、
商品を作る

農業を続けていくために、神山の土地にあったオリジナルの経済をつくってきたFood Hub Project。その経済のつくり方は、「消費とともに経済を発展させていく」という従来の考え方とは異なるものだった。

「例えば、町の経済を発展させるためなら企業を誘致して、人口を増やして、消費を増やすことで経済を大きくする方法もあると思うんです。ただそれよりも、自分たちでビジネスを起こして、自分たちの手の届く範囲で影響を与えあってまちを豊かにしていくということのほうが大事だと思ったんです」。食堂やパン屋、神山産の加工品製造を通して実践してきたその姿勢は、農家さんとの関わり方にも現れている。

「『フードハブの商品って、商品ぽくない』って言われているんですよね(笑)。それは、市場を見てマーケティング的に商品をつくるわけじゃないから。たとえばこのジャム、今年の神山のレモンが豊作で、めっちゃ余ってることを農家さんから聞いて料理長がつくったんですよ」。そう言って、真鍋さんはジャムの瓶を見せてくれる。マーケットの分析だけではなく、「この土地に何があるのか」ということから、経済が生まれていく。「面白いのが、フードハブのメンバーみんなが野菜や加工品のことを〝この子ら〟って呼ぶんですよ。それは、食堂とパン屋に野菜を卸してくれている農家の方々が野菜をそう呼ぶから」。ただ卸す人と買い取る人ではない。農業から生まれたものを共有し、町の人たちと一緒に価値を見出していく姿勢が、真鍋さんの言葉からも現れている。

「我々のしていることは農〝業〟であって、自給自足のためではないので、生業としてどう成立させるかというのはすごく重要。ただ方向性として、都会で暮らす不特定多数の人たちに向けるんじゃなくて、特定多数の顔の見える人たち、イコール町民の人たちに向けて商品をつくろうと考えています。常連さんや町の人たちの顔を見ながら、次は何があったらおいしいかな、と考えながら物をつくっているんです」。考えているのは「誰に届けるのか」、そして「何を地域に残すのか」

「実は、商品開発の参考にしている本があって。『神山の味』という一九七八年に出版されたレシピと食のエッセイ集のようなもの。これもかつては絶版になっていたんですが、『自分たちが手元に残しておきたいよね』という理由で現存するものをスキャンして、再度出版しました。こういう本のなかに載っている伝統的なものから発想を得たり、地元のお爺さん、お婆さんから郷土食を教えてもらって、商品として残すとか。受け継いでいくために商品化してつくり続ける、ということを重要視していますね」。そうして、経済を通して地域の文化を残していく。

自分たちが、神山の野菜を
食べ続けるために

そんな取り組みに共感し、フードハブで働くために移住してくる人もいる。「活動をきっかけに移住した人は、全部で三十人くらい。こっちで出会って結婚する人もいるし、子供が生まれた家族もいます」。しかし、移住や雇用創出といった効果はあくまで副次的なものだという。そのスタンスは、「地方創生の聖地」と呼ばれる神山町の辿って来た道とも重なるように感じる。二十年以上も前に始まったアーティスト・イン・レジデンスや、震災前後から認知されはじめたIT企業のサテライトオフィス設置など、人が人を呼ぶ形で注目を集めてきた神山町。「自然豊かな神山町でできること」を見つけた一部の人々が自分たちの活動を追求しているうちに、結果として多くの関係人口が生まれてきた。

「何より自分は、『自分たちが〝大丈夫〟な状態を、自分たちの手でどうつくるか』に興味があるんです。神山のため、地域のため、と話すけど、突き詰めてしまえば『自分たちが地元産のおいしい野菜を食べ続けたい』ってことでもあるんですよね。自分たちが豊かに暮らせる状態を、自分たちの手でつくりたい」。インディペンデントな取り組みが受け入れられる地域の土壌は、神山町に既にあった。やるべきことは、農業を地域に残すこと。そのために高齢者から農業を請け負い、農作物に価値をつけるべく経済の場をつくる。そして、次の世代へ繋ぐ機会をしっかりと準備する。

「約二年前の城西高校神山校の学科改正をきっかけに、フードハブは地域の学校のカリキュラムづくりをお手伝いしています。環境デザインコースと食農プロデュースコースという二つのコースの授業づくりを通して、農業のことを若い人たちに伝えています」。実習では、荒れた農地を開墾し、小麦を育て、それをどう製品化するかまで学生たちと共に考える。まさに、農業で経済をつくるための一連の流れが見えてくる授業だ。調理実習では、育てた小麦をパンにして食べる。「地域で育てたものを、地域で食べる」という意識を次の世代に広めることで、農業を次の世代につなごうとする。

「実は来年、初めてフードハブから未経験の、ゼロから農業をはじめた家族が独立するんです」。実習生として二年間、そして社員として二年間、フードハブの社会的農業に携わったメンバーが、ついに独立して農家になるという。「社員として働いている時代から、家と農地がセットになっている場所で自分の農業もやってもらっていました。ついに独り立ちですね」。さらに下の世代にも、農業に関心を持つ人が。「『将来は農業をやりたい』といってくれる子も出てきて。うちの子と白桃の子が小学五年生なんですが、その世代がまちを担っていく時期が十年後に来ると思うと、楽しみですね」。土地にある農業や文化を残すためにはじまった、神山町のFood Hub Project。地域に生まれた経済活動の先に生まれたのは、地元の野菜から生まれるおいしい食事と、「農業をやってみたい」と思える環境だった。

 

取材・文…乾隼人 写真…山元裕人

                   

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