職人に憧れ、メガネの聖地へ

メガネロック

世界三大メガネ生産地として知られる福井県鯖江市。
メガネ職人を志してこの地に移り住んだ雨田大輔さんは、
デザインから製造まで一人で行う「メガネロック」を立ち上げた。
彼の個性が詰まった工房を訪れ、仕事について話を聞いた。

職人に憧れ、メガネの聖地へ

「めがねのまち さばえ」という市のキャッチコピーどおり、日本一のメガネ産地として知られる福井県鯖江市。国内に流通しているメガネの九割以上を生産する、一大メガネ産業地帯だ。もともとは明治時代に鯖江市の議員を務めていた増永五左衛門という人をきっかけにメガネの生産が盛んになったと言われており、積雪量の多い鯖江市で、寒い冬に農業の代わりとなる軽工業として広く普及していったそうだ。大阪や東京から呼び集めた職人とともに、地域住民を巻き込んで技術を磨いてきた鯖江市のメガネ。そんな〝メガネの聖地〟に魅せられ、この地への移住を決めた人がいた。それが、「メガネロック」の雨田大輔さんだ。

雨田さんが生まれ育ったのは、鯖江市から遠く離れた鹿児島県。のちに運命を変えることとなるメガネと出会うまで、大手アパレルブランドのスタッフとして働いていたという。「販売の仕事で日々たくさんの商品を扱う中、ものづくりの背景が見えるアイテムに強く魅力を感じていました。どういう人たちがどうやって作っているのかを理解していると、お客さんに商品をおすすめする時もより一層力が入るんです。それで、ゆくゆくは販売だけでなくものづくりにも関わっていきたいと思っていたら、ふらっと入ったメガネ屋さんで『一枚一枚手作りしている職人がいる』というコピーが目に入ってきて。『泰八郎謹製』というブランドのものだったのですが、それがあまりにも心に残ったので、実際にその現場を見に行ってみたいと鯖江市を訪れました。まずは職人さんのところに数日間滞在させてもらったところ、メガネを作っている工場の様子や職人さんたちの人柄にすっかり魅了されてしまって。その日から、自分が作りたいと思うメガネを自力で作ってみたい! と強く思うようになったんです」

二十七歳の時に鯖江市に移り住み、今年で十三年目を迎える。はじめの七年間は、市内の企業に勤めてメガネ作りを学んでいたという。「本当は職人さんに弟子入りしたかったのですが、ずっと身内だけでやっているから無理だと断られてしまって……。でも、『職人の技術を継承しよう』という試みをしていた会社からちょうど良いタイミングで誘ってもらい、色々と教わることができたんです。僕が入った時は、県外からやって来た人が他に七人ほどいました。当時の仲間たちは、今も鯖江でメガネの仕事をしている人がほとんどですね。その会社では、メガネはどうやって作られているのか、機械をどう扱うのかなど、すべて一から手探りでやっていきました。誰かに聞いて教わるというより、自分の手で実際に試しながら学んでいくような方法で。得るものが多い、とても濃い七年間を過ごしました」

生産者の顔が見えるメガネブランド「メガネロック」が誕生

メガネを作るための技術を学んだ雨田さんは、二〇一四年に自身のブランド「メガネロック」をスタート。耳馴染みの良いユニークなネーミングには、「真面目の象徴であるメガネと不良の象徴であるロックを組み合わせて、真面目と不良の境界線を無くしちゃおう」という想いが込められているという。壁じゅうにイラストやグラフィックが貼られたにぎやかな工場からも、ブランド名に通じる軽やかなユーモアを感じることができる。そんな遊び心はメガネのモデル名にも共通していて、「メガネロック」のメガネはすべて「ベクター」という名前が付けられているのだが、それは向きや大きさを表す「ベクトル」という言葉と、子どもたちと一緒に観に行ったアニメ映画に登場する憎めない悪役「ベクター」から発想を得たのだという。身に着ける人の年齢や性別を問わない、普遍的かつウィットに富んだ「メガネロック」のデザインは、雨田さんのそういった人柄から生まれているものなのだと感じた。

「僕が作るメガネは、ハンドメイドってことを強く謳っているわけでもないし、技術がものすごく優れているわけでもないんです。世の中に出回っている商品って、大抵それをデザインしているデザイナーさんがいるじゃないですか。さらに、そのデザインを元に作っている職人さんもいる。でも、その両方の顔を見られる機会ってなかなかないんですよね。『メガネロック』の場合は、デザインも製造も僕がやって、最初から最後まで一人でやれているから、商品の生産者として自分が前に出ていきやすんです。スーパーに行くと、野菜のパッケージに農家さんの顔写真が載ってたりするじゃないですか。あれってすごく素敵だなと思っていて。メイドインジャパンやハンドメイドをアピールするより、ああやって作ってる人の顔を見ることができる方が、より説得力があると思うんです。そこが『メガネロック』の目指すべきところであり、一番の強みかなと思っています」と雨田さんは語る。

器や木工のように温もりを感じられる
手仕事のメガネを目指して

メガネ作りの工程は、とにかく〝磨く〟ことが多い。「メガネロック」の場合は、素材をメガネの形に合わせて大まかに切削する第一工程のみ外注しているため、カットされた生地が工場へと届くところから始まる。届いたパーツはまず、研磨機や泥、バフを使って磨かれる。それから丁番を付けるための溝を掘り、エアハンマーで丁番を取り付ける。クリングス(鼻パッド)のための穴を空けたら、熱を加えながらクリングスを埋め込む。顔の形にフィットするようにフロントやテンプルをカットし、ネジを入れて組み立てていく。ここまでの工程を経ると、だいぶメガネらしい形になってくる。その後は回転ヤスリや泥バフ、艶バフを使い、全体の質感をきれいに整えていき、ブランドロゴやブランド名を刻印。レンズを入れ込んで最終調整をし、検品を済ませたら無事に完成だ。一枚のメガネが出来上がるまでにだいたい四〜五十分かかり、現在は月に百五十枚ほどのペースで生産しているという。

工場を構えるのは、鯖江市から車で一〇分ほど走ったところにあるのどかな住宅街。もともとメガネの工場だった場所が「メガネロック」の拠点となった。なんと、同じ建物の中にはメガネにまつわる会社が他に二つも入っているのだとか。「このあたりはメガネの仕事をしている人が本当に多くて、大家さんもメガネ関係の人。工場に関しては少しごちゃごちゃしているくらいの方が落ち着くから、生地を削る時に出る屑などもそのままにしています。形をデザインする時だけは家のPCで作業しているので、パッといい案が浮かんだら、その日はもう家に帰ってデザインを描くようにしています。実は、好みのデザインっていうのは特になくて。こういうメガネが売れそうだな、とかも一切関係なく、こういうメガネをかけたい、という想いでデザインを考えています。まずは自分が欲しいものを作って、そこに周りの人も巻き込んでいけたら嬉しいですね。僕はメガネを作り始めた頃から、メガネも〝人の手から作り出される温もりのあるもの〟だと思っていて。器や木工のような手仕事のものと同じ並びで見てもらえたらいいな、と考えて作っていたんです。だから、まずは東京・千駄ヶ谷にある家具と工芸の店『プレイマウンテン』で販売してもらいたいとずっと決めていて。お店を手がける『ランドスケーププロダクツ』の中原慎一郎さんに相談したらとても気に入っていただけたので、そこからどんどん繋がりを広げていくことができました。今は北海道から鹿児島まで、十五〜二十ほどのお店で販売しています」

「この街をどんどん好きになってきた

後継者不足の鯖江市で、メガネ文化をどうやって残していくか

鯖江市に住んで十三年、「メガネロック」を立ち上げて五年が経ち、雨田さんを取り巻く環境も少しずつ変化してきた。「引っ越してきたばかりの頃はよく鹿児島が恋しくなっていたのですが、結婚して子どもが生まれて、自分のブランドも運営している今は、年々この街を好きになってきています。子どもたちはこっちに友達がたくさんいるし、自分にとっても仕事がしやすい場所なので、わざわざこの環境を手離してまで地元に戻る必要はないのかなと。パーツが足りなくなったらすぐに買いに行けるし、機械が故障してもすぐに修理に来てくれるし、ここは〝メガネの街〟というだけあって、メガネを作るにはこれ以上ない環境だと感じています。取引先とより良い関係性を築くためにも、近い距離にいてお互いに顔を見せ合えることが大切だと思うんですよね」

しかし、そんな鯖江市でも職人たちの高齢化が進み、後継者が見つかりづらくなっている。メガネ作りに使われる機械も、徐々に手に入りにくくなっているという。「周りのメガネ工房の話を聞いていても、跡継ぎが見つからないと言っている職人さんが増えてきています。鯖江市のメガネ文化を途絶えさせないためには、僕も人を雇って事業を拡大した方が良いのかな……と考えたりもするのですが、『メガネロック』として自分の作りたいものを作って届けたいところに届けるには、今の規模がベストだと感じていて。とはいえ、僕も鯖江市のメガネに魅せられたうちの一人なので、どうにかしてこの文化を長く残したいんです。『メガネロック』のメガネをかっこいいと思ってくれた人が、鯖江市という街や、ものづくりの背景に興味を持ってくれる。まずはそこから広めていけたら嬉しいですね。あとは、大きな企業に所属せずにインディペンデントなものづくりをしている一つの例として、これからの若い世代に少しでも明るい未来を見せられたらな、と日々思っています」

 

編集・文/大場 桃果 写真/兼下 昌典

                   

人気記事

新着記事