鹿児島県北西部に位置する薩摩川内市・いちき串木野市。
この地域は、豊かな自然と人の温かさが息づき、地域づくりやローカル発信に取り組む人々が活躍するフィールドです。
まちの魅力を掘り起こし、未来への担い手を育てるため、両市はローカルライター育成を目的とした講座を企画。
地域に根ざすプレイヤーや現役のライターが講師となり、実践的な取材・執筆を学ぶ2日間のプログラムが開講されました。
秋晴れの朝、川内川河畔のコミュニティ拠点「SOKO KAKAKA」に集まったのは、様々な職業を志す6名の受講生たち。
彼らをを迎えたのは、移住や地域づくりを支える両市の担当者、ローカルプレイヤーの田尾友輔さん、講師の大塚眞さん。地域の息づかいに触れながら、「書く」ことでまちを知り、まちとつながった濃密な3日間をレポートします。

今回のコミュニティ拠点「SOKO KAKAKA」
今回の講座の拠点は「SOKO KAKAKA」
川内川で行われていたレガッタのボート倉庫をリノベした空間で、現在はコワーキングスペースやイベントレンタルなどにも活用されています。
![]() |
|
|
1日目:学ぶ
作業やレクチャーの拠点となった「SOKO KAKAKA」にて、最初のプログラムは、講師による取材・ライティングのレクチャー。地域を取材する際の視点や、相手の魅力を引き出す質問の組み立て方など、プロの技が次々と紹介されました。

続いて、受講生同士が2人1組となり、自己紹介を兼ねたインタビュー実習へ。話を重ねるうちに緊張もほぐれ、互いの背景や目指す姿に耳を傾ける表情が柔らかく変わっていく様子がみられました。
後半は川内駅近くの商店街へ移動。居酒屋「網ごころ」の店主・中内さんへの“お手本取材”がスタート。Uターン後に母から受け継いだ店、川内大綱引への熱い情熱、故郷を想う素直な言葉に、取材後には質問が次々と飛びかいました。
店内は熱気に包まれたまま交流会へ。地元のおでん、鳥刺し、そして地域住民との会話が、初日の夜を温かく彩りました。

2日目:取材する
2日目は、いよいよ実践取材。受講生は2つのチームに分かれ、薩摩川内市といちき串木野市で活動するUターン者をそれぞれ訪ねました。
Uターン者が語る「外で見たからこそ分かる地元の良さ」、地域に戻って挑戦を続ける背景、家業や子育てと向き合う姿。それぞれの人生の言葉に、受講生は一言一句を逃すまいと耳を傾けます。
時間を重ねるほど、講座での学びが質問の深さや視線の向け方に表れ、取材対象者の笑顔も自然と増えていきました。

2日目の夕方から原稿づくりにとりかかり、受講生はメモや録音を頼りに言葉を紡いでいきます。訪れた土地の空気、出会った人の声、2市に広がる風景――それらを自分の表現に落とし込んでいきました。
3日目:まとめる
最終日は、いよいよ記事の発表会。それぞれが書き上げた原稿をPCで共有し、講師や受講生が読み合いながら感想を伝え合いました。
今回取材したUターン者たちは、生き方も働き方も様々。受講生がすくい取ったその“リアル”は、地域の温度が伝わる記事として形になりました。

まちの魅力を発見し、発信するローカルライターの役割。
そして、外の世界を知ったうえで故郷に戻り語るUターン者こそ、地域の魅力を伝える最強の語り手。
受講生たちの中にも「またここに来たい」「もっと深く知りたい」と、この地への思いが芽生え始めています。まちの価値を再発見し、言葉で届けていく――そのはじめの一歩が、確かに形となった3日間でした。
そんな3日間の成果である講師と受講生が紡いだ記事を紹介します。
薩摩川内市
綱と味をつなぐ人
──薩摩川内市に帰郷した料理人が受け継ぐ、二つの大切なもの
東京で店を開く夢を追い続けてきた料理人・中内博明さん。
しかし、コロナ禍と母の病をきっかけに帰郷し、思いがけず故郷・薩摩川内市で二つの「大切なもの」を受け継ぐことになった。
ひとつは、家業のおでん屋「綱ごころ」の味。もうひとつは、まちの誇りである川内大綱引で“一番太鼓を叩く”という、過去に諦めた夢だった。
これは、人生の転機で「継承」というテーマと向き合うことになった一人の料理人の物語である。
取材にご協力いただいた方
![]() |
|
中内博明さん 1982年生まれ、薩摩川内市出身。学生時代からラグビーに打ち込む。大学を中退して料理人の道へ。上京後は三ツ星レストラン「ガストロノミー ジョエル・ロブション」で修行。自分の店を持つ直前でコロナ禍と母の病気が重なり、2020年にUターン。中心市街地で20年以上続く母のおでん屋「綱ごころ」を継ぐ。 |
フレンチの一皿が、人生の方向を変えた。
中内博明さんが料理の道に進んだのは、大学時代に熱中したラグビーを辞め、大学を中退したことがきっかけだった。最初に働いた薩摩川内市の飲食店で、フレンチ料理に出会う。
「衝撃を受けました。色の使い方、皿全体の構成、調理の仕方。これはフレンチにしかできない表現だと思います。同じ食材でも、思想と技術でここまで世界が変わるのかと。この表現をもっと学びたいと思って、上京を決めました。」
上京後、働く先に選んだのは星付きレストラン。最高峰・三ツ星レストランの面接に幸運にも通り、修行の日々が始まる。
「料理は国が違えば、同じ食材でも“考え方”がまったく違う。それに触れ続ける日々が本当に楽しかったし、自分の料理人としての幅が広がっていくのを感じました」

▲鹿児島名物の鳥刺し。出汁や調味料は手作りにこだわり、地元の食材を使う。
中内さんは、人の紹介を頼りに興味の向くまま様々な料理を学んだ。
フランス植民地の文化が色濃い西アフリカ料理、インドのスパイスの流れを汲む調理法、ケニア大使館の料理長に師事する時期もあった。
技術と経験が積み上がっていく中で、「自分の店を持つ」という目標はより鮮明になり、ついに独立準備が進み始める。
自分の店を持つ夢を叶えるために、諦めた地元での夢
「お客さんの一人から全額出資するから、『自分の店を持たないか』と言ってもらえたんです。正直葛藤しました。地元の川内大綱引で『一番太鼓』を叩くという子どもの頃からの夢を諦めることになるからです」
※川内大綱引は薩摩川内市で400年以上続く伝統的な行事。その花形である一番太鼓は地元で認められた者しか叩くことはできない。
中内さんは涙をのんで、料理人としての夢を叶えることを決めた。東京の千駄ヶ谷で新築の物件を見つけ、いよいよオープンを目前とした時、新型コロナウイルスが世界で流行した。
計画が頓挫したのと同時期に、母の病が重なり、看病のために、地元へ戻る決断をした。
「一度立ち止まると、地元との距離感が変わって見えました。“このアーケードの提灯の灯りが消えるのは寂しい”と言われたときに、母の店を継ごうと思ったんです」

▲アーケードの灯りを途絶えさせないこと。帰郷して向き合った母の店の味。
東京で開くはずだった店の扉は閉じた。しかし、その“中断”が、新しい継承の物語を開くことになる。
母の味を受け継ぎ、店を守る。再び向き合った“継承”の本質
帰郷してまず向き合うことになったのが、母が20年以上守ってきたおでん屋「綱ごころ」だった。味の基本は、母が長年作ってきた出汁にある。
「正直、フレンチで15年やってきた自分が、この店を継ぐとは夢にも思っていませんでした。でも、継ぐと決めた以上、この味を変えないことが一番大事。過去のフレンチシェフとしての自分は一度、脇に置いて、向き合うことにしたんです」

▲本枯節という最高級のかつお節を丸々1本入れた出汁からつくる「おでん」は地元に愛されている
入院中の母と一緒に、鍋を前にして作り方を確認する時間が続き、中内さんは、その味を引き継いでいった。
帰郷して引き継ぐことになったもう一つのものがある。それが川内大綱引だ。
中内家は代々深く関わってきた行事で、400年続く国の重要無形文化財でもある。
「東京で店を出すと決めた時に、一度は諦めた夢が“川内大綱引で一番太鼓を叩くこと”でした。太鼓の合図でまちが動き出す。その大役は、東京にいては叶えられなかったんです。」

▲店内には中内家が代々叩いてきた太鼓や太い綱、継承の文字が掲げられていた。
一番太鼓を叩く役は“望めばできる”ものではない。
地域に長く関わり、信頼され、「あの人に任せたい」と思われて初めて可能になる。
この祭りで引く綱は、1年かけて集めた藁を持ち寄り、1日で練り上げる。
綱づくりは早朝5時に始まり、夕方まで続く。多様な立場の人々が一本の綱を共同で練り上げていく。
その姿に、中内さんは継承の本質を見た。
「形は変わっても、やってきたこと、続けてきたことの意味は変わらない。どんな人も同じ立場で、その日は祭りのために時間を使って向き合う。小さな頃から魂に刻まれていたこの営みを引き継ぎ、伝えたいと思ったんです。」
母の味も、まちの誇りである行事も、料理人として研鑽を積んだ東京での15年間も、店を始めると決めたあの日に手放した夢も、中内さんの中で一本の綱のようにつながっていった。
「認められないと一番太鼓は叩かせてもらえない。それでも、何年かかっても、そう思ってもらえる存在になりたいですね。」
中内さんが見せる、信念を貫こうとするまっすぐな姿は、地域を未来へと紡ぐ光になるだろう。
![]() |
|
\この記事を書いたのは/ ローカルライターはまちづくりへの第一歩 |
薩摩川内市
温泉街に生まれた、若き挑戦者
まちの再生へ向けて 熱はここからはじまる
江戸時代から湯治場として栄えた歴史ある、薩摩川内市きっての名湯、市比野温泉。
かつては団体旅行客で賑わいを見せた自然豊かな温泉街だが、閉業してしまった遊戯施設や旅館跡地も少なくない。
今、この地に新たな人の流れを呼び込んでいる場所がある。
2023年5月にオープンした貸切温泉サウナ郷『翠嵐』だ。若干23歳にして代表を務める小橋さんに、新たな挑戦に向けた信念を聞いた。
取材にご協力いただいた方
![]() |
|
小橋 明嵐さん|貸切温泉サウナ郷『翠嵐』 2002年生まれ。鹿児島県薩摩川内市樋脇町市比野出身。50年以上続いた実家の奥旅館跡地を活用して貸切温泉サウナ郷『翠嵐』をオープン。 |
温泉とともに育った日々――ずっとそばにあった、湯と人のぬくもり
「市比野に生まれて、このまちで保育園から高校まで通って。友達と遊ぶといえば、学校帰りに温泉や大浴場に行くことでした」小学生の頃には既に、実家の奥旅館で番台の手伝いをしていたという小橋さん。
「お客さんが来て、挨拶してお話をして、ときには一緒に湯に浸かって。子供ながらに、なんだか面白いなと思っていました」
温泉を通して、会話が生まれ、人との繋がりができていく。その光景からか、いつしか“このまちのために自分ができること”を考えるようになった。
「でも最初から地元で何かを始めてしまったら、きっと外に出て社会を知る機会はないと思ったんです。だから高校卒業後は、一度まちを出ることを決めました」
ふるさとへの想いを胸の内に秘め、都会へと飛び出していった。
都会に出て気がついた、ふるさとのまちの価値
大阪に出て工場で働きはじめた小橋さん。離れてみてますます、地域の魅力について考えるようになったという。
「都会で働いてみて、どこに行っても最先端で、面白い発見が毎日。でも同時に、まだないものが沢山あるような場所だからこそ、なんでもできる可能性があるんじゃないかと思えてきて」
全国の温泉や浴場にも日々足を伸ばし、アイデアを練る毎日が続いた。
「市比野の場合は、やっぱり一番は温泉の素晴らしさというのがあるので。それと何かをかけあわせれば、新しいことができるんじゃないかと」
そんなとき、コロナ禍の影響もあり、50年以上続いた実家の奥旅館の閉業が決まった。
「戻らないと、と思いました。少しでもまちを盛り上げるために、僕が帰ってやらなきゃいけないって」
予定より早く、2年でUターンを決断した。
「大切な時を、翠嵐で」
個室温泉×最新サウナで新しい時間の過ごし方をつくる
小橋さんが構想したのは、市比野にまだなかった「家族湯」形式の温泉に、最先端のサウナも備えた施設だ。
「家族湯」は鹿児島県を中心とする南九州地方独自の文化で、一つの建物棟内に温泉の貸切部屋がずらっと並ぶ。
各個室で過ごせるため、ソーシャルディスタンスの世の中を逆手にとった戦略でもあった。

▲利用客が訪れると、小橋さん自ら個室の浴槽に源泉100%かけ流しの温泉を貯める。これぞ温泉地ならではの贅沢だ

▲一人客、カップル、家族、取材中も客足は途切れることがない。5時間パックでも時間が足りないと言われることも
誰にも気兼ねせずゆったりとプライベートな時間を過ごせる『翠嵐』。
オープンして約2年半、客足は増え続け、週末は熊本や宮崎からも100組以上が訪れる。
毎週決まった時間にやってくる常連客や、お弁当を持ち込んでピクニックのように利用する客も居るという。
「泉質は昔と変わらない。でも、スタイルを変えたことでここで過ごす時間を楽しんでくれる人が増えて、遠くから来てくれる人も増えて。喜んでもらえているのを感じます。やっぱりそれだけの価値があったんだと思いましたね」
本音は、みんなでまちを盛り上げたい。一人じゃできないこともある
施設屋外で夏祭りのイベントを企画、地元の蔵元から貰った芋焼酎樽での水風呂制作など、最近は地域との繋がりづくりにも積極的だ。
「このまちに長く滞在してもらえるようにしたい。将来的にはスポットが増えて、コラボできたらいいなと思うんです。食べる場所、寄れる場所、泊まれる場所……翠嵐もそのうちのひとつといったイメージです」
まち全体の魅力をもっと広げ、盛り上げていきたい。事業の更なる展開も検討していると語る小橋さん。
「僕はみんなに帰ってきて、って言ってるんです。まちのために、ここで一緒にやろうよ、って。古着屋とか飲食店とか、アイデアはあっても躊躇しているって話を聞いていて。はじめは大変だけれど、まちのためにという思いがあれば必ず支援してくれる人がいる。一歩進めば怖いものはないから」
そして、こう続けた。
「10年後、20年後、30年後には、絶対に市比野は変わります」

▲挑戦に悩む人がいれば相談に乗れたら。自身もまだ『翠嵐』はスタート地点だと話す
断言する真っ直ぐな瞳には、未来の温泉街の灯りの輝きが既に映っているようだ。
生まれ育ったまちに向き合い、その賑わいの再生を切に願う一人の情熱が、この地に確かな変化を起こしはじめている。
その呼びかけに応える人が現れ、さらに情景の映り変わりが加速することを楽しみにしたい。
![]() |
|
\この記事を書いた受講生/ 市役所の方やお話を伺った皆さんが家族や地域の人たちとの繋がりを心から大事にされていて、コミュニティの強さを感じました。 |
薩摩川内市
家族が導くUターンの形
都会の暮らしで、ふと立ち止まった時。今の生活に、何か疑問を思った時。
いつかは考えなきゃいけない、両親のこと。
今回は、そんな誰もが経験し得る“タイミング”が重なってUターンに至ったある家族のお話をお届けします。
取材にご協力いただいた方
![]() |
|
青崎 剛さん・芳子さん|キッチンカー『ピザラニアン』 1980年生まれ。大学まで鹿児島で過ごし、卒業後は福岡で就職。その間、夫の剛さんと出会い結婚するも、ご主人のご病気を機に故郷鹿児島の薩摩川内市にUターン。地域おこし協力隊を経て、現在は、キッチンカーでピザの移動販売『ピザラニアン』とドッグカフェを夫婦で運営している。 |

予期せぬタイミングで迫られた、田舎暮らしという選択
大学卒業後、地元鹿児島を離れ福岡で総合職として働いていた、青崎芳子さん。
7年間の福岡生活で、ご主人の剛さんと出会い結婚をする。
結婚生活が始まって1年ほど経ったある日。2人の生活を一変させる出来事が起こる。
剛さんが体調を崩したのだ。検査の結果、今の仕事や生活を続けていくことが困難になり、都会の福岡を離れ田舎での暮らしを考えるようになる。
2人が真っ先に思いついた移住先が、芳子さんの故郷。鹿児島県の薩摩川内市だった。
ご両親は70歳を超える高齢で、しかも芳子さんは一人娘。
元々ご両親のことが気になっていて「いつかは戻らないといけないと思っていた」という。
その“いつか”は、意外な形で訪れた。

▲人生の転期は、思ってもないところからやってくる。それを、柔軟に受け入れた2人。
新しい家族と叶えたい夢
Uターンにあたり2人が選んだのは、「地域おこし協力隊」という働き方だった。
住む場所が確保されていたこともあり、2人は2016年、西郷隆盛が愛した昔ながらの温泉郷「川内高城温泉」で、協力隊としての3年間の任期をスタートさせた。
「都会のマンション暮らしじゃ、とてもできなかった」という、憧れだったワンちゃんを新しい家族として迎え入れた芳子さん。
「この子(ワンちゃん)と一緒に仕事がしたい!」これがきっかけで、2人の夢が動き出していく。

▲Uターン後の暮らしは、このワンちゃん達が中心の暮らし。家族の暮らしがあって、そこから仕事を形にしていった。
叶ってゆく夢と場所にしばられないという柔軟な発想
協力隊の任期を終えた2人は、2020年7月にキッチンカーでピザの移動販売『ピザラニアン』を夫婦で開業。
「色々な場所に出向いていけるキッチンカーは、チャレンジ好きな私たちのスタイルに合っている」というように、その挑戦は止まらない。

▲愛犬のポメラニアンとピザをかけて『ピザラニアン』。現在は鹿児島のほか、熊本で出店することもある。
2022年3月には「ペット好きな愛犬家の集まる場所を作りたい!」と、念願だったドッグカフェもオープンさせ、1つずつ夢を実現させている。
Uターンにおける本音
Uターンの相談をした時、ご両親は娘が本当に戻ってくるのか半信半疑だったようだ。
それでも実際戻ってくると「近くに帰ってきてくれて安心してるよ」と感謝されたという。
「交通の便や利便性。そりゃ正直、都会の福岡にいた時の方が全然便利でしたよ(笑)でも犬が喜ぶ自然環境や、精神的な充実感は今の方がありますね」
Uターンにあたり、環境の変化や新しい土地での生活。もちろん不安はあったのだと思う。タイミングだって、思っていたタイミングではなかったのかもしれない。
「もしダメだったとしても、またやり直しは効く」と思っていたという芳子さん。
『(移住やUターンしたら)もうずっとその場所に住み続けなければいけない』という考え方は、ひょっとするとただの思い込みなのかもしれない。
あと何回、親の顔を見られるかな…
ダメだったら、また都会に戻ればいい。
そのくらい心に余白を持ちながら、故郷のことを考えてみてはいかがだろうか。
![]() |
|
\この記事を書いた受講生/ Uターンの動機はさまざまですが、皆さんのお話はUターンを思いとどまっている人の希望の光になるように思いました。 |
いちき串木野市
24時間を“楽しい”で満たす。
Uターン移住した元看護師がつくる、地域のフォトスタジオ物語
看護師として働く日々の中で、子どもとの日常で見つけたのが「楽しい」の始まりだった。
気づけばカメラを手にし、看護師からカメラマンへ。“楽しい”ほうを選ぶ、その感覚に従い迷わずに決断してきた知覧さん。そんな彼女が次に選んだのは、いちき串木野市へのUターンだった。
ショールーム跡地はフォトスタジオとして生まれ変わり、地域の人の思い出と挑戦が行き交う地域のたまり場のような場所へ姿を変えた。
「24時間はみんな平等だから、楽しいことで満たしたい」
そう語る彼女の歩みは、子育て世代にも、挑戦に迷っている誰かにも、この地域で暮らす一人ひとりにも、小さな勇気をくれるそんな物語だ。
取材にご協力いただいた方
![]() |
|
知覧 美穂子さん|フォトスタジオ 1983年生まれ。いちき串木野市出身。18歳であった2002年4月、看護学校の通学が困難であったこともあり鹿児島市内で生活を始めた。2005年3月、21歳の時に看護学校を卒業。卒業後は市内の病院に勤め、その後結婚し、子どもが生まれ、カメラを始めた。2023年4月にいちき串木野市にUターン。 |
看護師からカメラマンへ―“楽しい”を選び、進む生き方
看護師として働き、子育てをしながら出会ったのがカメラの楽しさだった。
「子供が生まれたことがきっかけ、可愛く写真を撮りたいとカメラを手にしたのが始まり、気づいたらカメラについて勉強しに通っていました」
当時は今ほどフリーカメラマンが多くなかったが、SNSやコミュニティーを通じて自然と依頼が増えていったという。
「決めたら後ろを振り返らないタイプなんです」と、知覧さんは微笑みながら話した。
Uターンへの背中を押したひらめきと地元への原点回帰
鹿児島市内でカフェ併設のフォトスタジオを運営していたものの、コロナで出張撮影が増え、スタジオの家賃の負担があった。
そんなときに耳にしたのが、父の整備工場隣のショールームを「閉めようかな」という話だった。
「もったいない!ここで撮影できるんじゃない?」
そのひらめきが、地元へ戻る背中を押した。
2023年、家族とともに地元・いちき串木野市へUターン。
翌年にはショールームを改装し、現在のフォトスタジオが誕生した。

▲改装前・父の整備工場の隣で眠っていた空間が、地域の人が集うフォトスタジオへと変わった。
地域の“距離の近さ”、が心地よさをつくる
今ではフォトスタジオの運営以外にも、マルシェの開催、ママたちのキャリア相談など活動は多岐にわたる。
それだけでなく、近所のおじいちゃんおばあちゃんがふらりと訪れ、
「スマホの使い方を聞かれたり、野菜をいただいたり。気づいたら地域のたまり場みたいになっていました。」
子どもたちも放課後に立ち寄り、小学生から高校生までが自然と集まる場所に。市内にはない豊かな自然と地域の距離感。それが今の働き方を心地よくしてくれているといいます。



▲おじいちゃん、おばあちゃんの家にあったミシンやレコーダーをフォトスタジオで活用している。地域の人にもお花や大きな松ぼっくりをいただいたり、自然と地域とのつながりがある。
“やればいいじゃん!”を広げたいママたちの挑戦を後押しする活動
「24時間はみんな平等。だったら楽しいことで満たしたい」
決めたら一気に進む“行動力の鬼”。 Uターン移住、子育て、仕事。
そのすべてを「楽しさ」でつなぎ、やりたいことに素直に、日々の時間“楽しい”で埋めていく彼女の歩みには、母親というしなやかな強さと地域のあたたかさがあふれている。
「子どもを育てるパワー、バイタリティーってすごい、だからこそ、子育て世代の活躍できる場をもっと作りたい」
やりたいことがあるのに一歩踏み出せない人へ
「やればいいじゃんと背中を押す存在でありたい」
その思いが、地域のつながりや新しい挑戦の種をまいている。
その姿は子育て世代にも、Uターンを考えている人にも、地域の人にも小さな勇気をくれる。

「行動すれば、誰かが見てくれている」
小さな一歩でもやりたい気持ちに素直になれば、自分の取り巻く景色もきっと変わる。
彼女のフォトスタジオには、子どもたちの声や地域の人の笑顔が自然と集まってくる。
その日常こそが、彼女の言葉の説得力そのものだった。
![]() |
|
\この記事を書いた受講生/ いちき串木野市の方々にお話させていただいた中で、人の世話をするのが好きな方々が多いんだなと感じ、温かさが伝わりました。 |
いちき串木野市
移住から広がる家族の時間の育て方
『家族にとって過ごしやすいとは?』
『子どもにとってのいい環境とは?』
育休で家族の時間と向き合ったことから家族のより良い暮らしを見つめ直したご夫婦に話を伺いました。
取材にご協力いただいた方
![]() |
|
森満 誠也・ 麻里子さん 元鹿児島市役所の職員、現在は隣町にある小学校跡地を利活用した施設『日日nova-ひびのば-』に、麻里子さんは市内で嘱託職員として勤務。 |
「まずは半径50センチの幸せを」価値観を変えた育休の日々
5人の子どもたちとの時間を何より大切にしている誠也さんと麻里子さん。
だが、以前の誠也さんは仕事に追われ、家族に十分な時間目を向けられていなかったという。
元々別の市町村の役所で働き、休日も返上してまちづくりに情熱を注いていた誠也さんは、周りに思うように理解を得られないことも多く、悪戦苦闘の日々が続いていた。
そんな折、3人目のお子さんの誕生を機に、初めて半年間の育休をとった。

「妻が4〜5年もの間、これほど大変なことを一人で担ってくれていたんだと痛感しました。同時に、子どもと過ごす時間の尊さを深く実感しましたね」
子どもたちの成長を近くで見守れる喜びと思い通りにいかない育児の大変さ。
そして何より、これまで気づけなかった妻の頑張りの大きさ。
半年間の育休で、誠也さんの価値観は大きく変わった。
「家族を幸せにできていないのに、何がまちづくりだ。まずは半径50センチを大切にしなくては」
そう強く思い、転職へと踏み切った。
家族のこれからを考えて選んだ暮らし
働き方が整った頃、お子さんの小学校進学の時期が近づき、どんな環境がいいか夫婦で考えたという。
そんな時に知人から、いちき串木野市にある神村学園初等部の評判を聞き、訪れたことがきっかけで「いまよりも暮らしやすく、家族みんなにとってもプラスになることが多いのではないか」
と感じ、この地域を選ぶ決め手となった。
夫婦がその学校に惹かれた理由は、誠也さんが感じた幼稚園から小学校への急な切り替えに感じた違和感が原点だった。
「寄り添ってくれた幼稚園から小学校に入学した途端、急にきっちりした空間になるのがずっと気になっていて…。だからこそ幼稚園と小学校のギャップを繋いでくれる学校がいいなと思ったんです」
麻里子さんも「その点、ここだったら、子どもに合わせて声をかけてくれたり、
体験の幅も広がったり。そういう環境がある場所なら、家族のこれからも、もっと穏やかに自分たちらしく過ごせるんじゃないかなって」と安心に切り替わったという。
移住してからの日々の変化と暮らし
「前は友達ってちょっとハードルが高かった長男が、今は『誰々とこんなことしたよ』って楽しそうに帰ってくるんです。友達との距離が近くなり、自分の意思も以前よりもはっきりと言えるようになりました」と麻里子さんは話す。

家庭内での過ごし方にも変化があった。
「休日には映画鑑賞をしたり、浴室で泡風呂を楽しんだりと、家の中での家族時間が増えましたね。それと、インターチェンジが近いので移動がしやすく、気軽にいろんな場所へ出かけています。家での楽しみ方が広がった分、家族で過ごす休日の選択肢も増えたように思います。」
家族の最適な在り方を常に大切にする森満さん一家の半径50センチはますます豊かなものになっていくだろう。
![]() |
|
\この記事を書いた受講生/ 私は薩摩川内市民なのですが、今回の経験を通して、改めて薩摩川内市の人柄の魅力に気づき、誇りを持つことができました。 |
いちき串木野市
米づくりに魅了されて
― 会社員から農家へ転身。祖父母の稲田を守り継ぐ
会社員を辞め祖父母の稲田を引き継ぎ、いちき串木野市の山あいの地域(荒川地区)で過ごす蓑手一平さん。
米づくりの面白さにのめり込む一方、高齢化の現実にも直面する。
「好きでないと続けられない」
農家になったからこそ分かる大変さ。一方で感じる人とのつながりや自然の美しさ。
飾らない姿で米づくりと向き合う職人の想いを尋ねた。
取材にご協力いただいた方
![]() |
|
蓑手 一平(ミノテ イッペイ)さん 昭和54(1979)年5月1日生。鹿児島市内で勤めて会社を辞め、祖父母の田んぼの跡継ぎとして就農。家族で引っ越し、米作りに夢中になる日々を送っている。4人の子どもがいる。 |
やって気付く面白さ。米づくりが人生の転機となる
会社員時代から祖父母に呼ばれ米づくりの手伝いに呼ばれていた。手伝う中で工夫すれば稲の育ちも変わると分かり、米作りの面白さに魅了される。
「子どもの頃は手伝うのが嫌だった。大人になってからも小遣い稼ぎのため渋々行っていたが、土いじりをするようになって段々と面白さが分かってきた。いつの間にか夢中になって、気付けば1人でも作業していた」
荒川地区の高齢化が進み「代わりに作ってほしい」という相談が増えていた。米づくりの楽しさと稲田を守りたい気持ちが相まって農家になることを決心。当初は周囲から反対の声が多かった。
『みんな反対していた。けど妻は協力的だった。事務仕事を一緒にやってくれて、働くことで共通の目標も持てた。会話も前向きになって本当に感謝している』

▲作った米を友人に食べてもらった時、おいしいと言って喜んでくれるのが一番のやりがい。
農業の奥深さにのめり込む日々
農家として生きるためには農業について体系的に学ぶ必要があると考え、まずは地元の農業学校で10か月間基礎知識から経営までを勉強した。学校で口酸っぱく言われたのは「農家は趣味ではない」ということ。農家で生きていくことは本当に難しいことだと厳しく言われていた。
修了後に市の認定農業者になった当初はなかなか満足な収穫量を上げられず、農業の厳しさを実感した。地域の先輩農家に相談に乗ってもらうなど支えてもらいつつ、試行錯誤を重ねて8年目でようやく納得いく収穫量を得られるようになった。しかし、蓑手さんの探求心は深く、自分の技術にはまだ満足できていないと語る。
『(農家としての)誇りはまだ持てない。収穫は年に1回しかない。いいものを毎年作りたい』
職人としての飽くなき探求心と、強い信念がうかがえる言葉だった。そうして10月、蓑手さんの努力を一身に受けた稲がこうべを垂れて一面を埋め尽くす。
『収穫のとき、稲穂が陽を浴びて黄金色に光る中をコンバインで進んでいく時間が好きなんです。遠くに祖父母の背中があったのを思い出す。田んぼを守ってよかったと思う』

▲蓑手さんが手をかける稲田の一部。なつほのか・あきほなみ・ひのひかり・あきの舞と4種の米を育てている。なつほのか・あきほなみは、鹿児島県が独自に開発した米で甘みと粘りが特徴。
地元米ブランド化の夢に向けて
今後の目標は、年に一度の収穫を二度に増やすこと。質へのこだわりにも妥協せず、持続可能な農業を実現するための課題にも挑む。
『作り手が減っていく中で、少ない人数で稲田を管理するための整備が必要だ。自分の経験を活かして支援できる体制を作りたい。一緒にやってくれる人を増やし、ゆくゆくはこの土地のブランド米を作りたい。』
静かに語りながらも、蓑手さんの眼差しはまっすぐと未来を向いていた。
![]() |
|
\この記事を書いた受講生/ Aさんの話をBさんがして、CさんからもAさんの名前が出てなど、個人ではなく地域全体で支えあっているのを感じました。 |
いかがでしたか?
Uターン移住者達の外を見て生まれ故に戻ったからこそ語れる言葉に、受識生たちも2市に興味を持ち、関係人口となるきっかけや移住・定住への関心も深まったようでした。
\今回の舞台 〜薩摩川内市・いちき串木野市ってどんなところ?〜/
薩摩川内市
鹿児島県北西部に位置する薩摩川内市は、九州新幹線の停車駅を持つ便利な拠点でありながら、豊かな自然と歴史文化が息づくまちです。市街地を流れる川内川や藺牟田池、東シナ海に浮かぶ甑島列島など、多彩な景観が広がります。
見どころは、薩摩藩時代の面影を残す「入来麓武家屋敷群」、縁結びでも知られる「新田神社」、断崖絶壁の絶景が続く「甑島」、そして夜空を楽しめる「せんだい宇宙館」など。温泉や特産のうなぎ・焼酎も魅力です。
薩摩川内市定住支援センター 「よかまちきやんせ倶楽部」
(産業人材確保・移住定住戦略室内)いちき串木野市
鹿児島県西部、東シナ海に面するいちき串木野市は、美しい海と山に囲まれ、温暖な気候と豊かな歴史が息づくまちです。吹上浜の白砂や霊峰・冠岳など、自然が織りなす多彩な景観が広がります。
見どころは、徐福伝説の舞台「冠嶽園」、海に浮かぶ朱色の橋が印象的な「照島神社」、薩摩藩英国留学生の志を伝える「薩摩藩英国留学生記念館」、そして夕日が美しい「長崎鼻」など。さつま揚げ発祥の地としても知られ、まぐろ漁や焼酎蔵も楽しめます。






















