自分の生き方をデザインできる場所「宮崎県」

大学上京を機にITベンチャーの世界に飛び込み、以来デジタルマーケティングの分野で第一線を走り、現在は宮崎大学で教壇に立つ土屋有さん。土屋さんはなぜ、新たな生きる場所として宮崎を選んだのか。そして「宮崎から社会を変えていける」と力強く言う、その真意はどこにあるのか、お聞きしました。

土屋 有さん
1980年、宮崎県都城市生まれ。大学在学中から上場企業など複数の企業経営役員を歴任し、2012年には多摩大学大学院経営情報学研究科博士課程前期修了。その後、同郷の仲間が地元の市長選に出馬するといった出来事も後押しし、「故郷に貢献したい」と2013年に宮崎へUターン。地元企業の取締役としてソーシャルビジネスの立ち上げなどに携わり、2015年からは宮崎大学地域資源創成学部の講師として教壇に立つ。専門はマーケティング。

 

ベンチャービジネスと東京の街に憧れて

白いパーカーにアップルウォッチ、そしてトレードマークのちょんまげヘア。およそ大学の先生とは思えないような出立ちのその男性こそ、宮崎大学地域資源創成学部の土屋有先生だ。

この日も、撮影場所を探して校内を一緒に歩き回っていると、「土屋先生!」「先生、こんにちは」と元気よく学生たちが声をかけてくる。「最近どう?」と土屋さんが返せば、「試験ヤバいです」「今度進路の相談に乗ってください」と、まるで仲の良い先輩と後輩のような会話が繰り広げられ、そんなやりとりからも、学生たちがいかに厚い信頼を寄せているか見て取れる。

土屋さんのルーツは、宮崎県南部の中山間エリア近くに位置する都城市にある。1980年に生まれ、地元の小、中、高校に進学。高校時代からインターネットを使ったビジネスに興味を持った。「ベンチャービジネスという言葉を知って、率直に『かっこいい、面白そう!』『自分もやってみたい』という気持ちが湧き、大学は東京に行かなければならないと思いました。宮崎にいた時はどことなく閉塞感があって、チャンスを掴むなら東京に行かないといけないと思ったんです」

進学を機に上京し、一年生の頃から遊びに行くのは渋谷や六本木。「東京らしい東京を味わえました」と土屋さんは振り返るが、もちろん学生時代に遊び呆けていたわけではない。二年生からはIT企業でアルバイトを始め、間近で憧れを抱いていたベンチャービジネスの最前線を見ることになる。

顧客の前でプレゼンテーションし、ビジネスを生みながら華やかに仕事をこなす人々と出会い、共に汗を流し、自身も学生ながらにして取締役に就任。26歳の頃には上場も果たした。しかし、充実した日々の中には、思い描いていたイメージとのギャップが垣間見える瞬間も少なくなかったという。

「ビジネスの現場も、社長という存在も、思った以上に地味なものでした。堂々とプレゼンするには、その何倍もの時間をかけてパソコンと向き合って資料を作らねばなりませんし、社長ともなれば人が嫌がることや避けたがる仕事も率先してやらないといけない。そしてビジネスとは、一人でこなすものではなく、チームでコツコツと積み上げてこそ結果が出る。そんなリアルを若いうちに知れたことは自分にとって大きな糧になったと思います」

 

地元で活躍する同志の姿に自らも「故郷に還元したい」

その後もインターネットマーケティングで医療、介護業界の課題を解決したいと会社を設立。有料老人ホーム紹介事業などを展開しながら自身の手で会社の舵を取ってきたが、2010年には会社を売却することに。以降、売却先の役員を務め、更なる飛躍の場として面白法人カヤックに参画。事業部長として再びゲームビジネスの最先端で自身のマーケティング力を発揮することになる。そんな、一見東京でのビジネスライフを謳歌する土屋さんが、なぜその目線を宮崎に向けることになったのか。きっかけはいくつかあった。

2010年には故郷・宮崎で家畜伝染病「口蹄疫」が流行、その翌年には東日本大震災が発生し、改めて「故郷とは自分にとってどのような存在なのだろう」「自分の生きるべき場所は本当に東京なのだろうか」と自問自答するように。さらに後押しとなったのが、東京で出会った宮崎出身の仲間が、地元で市長選に出馬するというニュースだった。

「僕が宮崎へUターンを決めるに当たって、当時心の底に流れていた感情は決して『儲けよう』という気持ちではなく、あくまで『自分も社会に何か還元したい』という思いでした。身近にいた人たちが徐々に宮崎で活躍し始める姿を見て、僕にも故郷でできることがあるはずだと思ったんです」

加えてちょうどその頃、母校である多摩大学の大学院でMBAを取得した土屋さん。自分が社会の中でどの程度のバリューが発揮できるのかと、自分自身を試したいという思いもあった。


大学進学を機に上京し、当時は「自分が主人公になれるチャンスを掴まねば」と、学生時代から憧れのITベンチャーの世界へ。東京時代ではマーケティング力を磨きながら、チームで働くことの意義など多くの学びを得た。

 

地域との距離が縮まり等身大の暮らしができている

自らが培ってきた知見や経験を社会に還元し、地域に関われる生き方をしたい―そう思い立った土屋さんが宮崎に戻ったのが、今から約8年前の2013年、春のことだ。同年5月には宮崎を拠点とするIT企業にジョイン。地方発ベンチャーであった同社は、「宮崎に1000人の雇用をつくる」という経営理念を掲げていたことも、土屋さんが同社への参画を決めた大きな後押しとなった。

「故郷で、地方で、自分の力をフルに生かしていくためには、同じ志を持つ人々と出会い、チームとなって前へ進むことはマストと思っていました。僕が入った会社は宮崎に拠点を置きながらも、その視点は常に日本に、そして世界に向いており、かつ『地域に貢献する』というポリシーは、僕の理念ともピタリと合致していたんです」

同社の役員として迎えられ、宮崎の地から世界に通ずるECソリューションサービスの開発・提供に取り組んだ土屋さん。2015年に株式会社スタートトゥデイ(現・ZOZO)に会社を売却した後も取締役として、同社を見守り続けた。土屋さん自身は宮崎へ戻ってからも、こと働くことに関して言えば特に「何かが変わった」とは思わないという。

「東京時代も仕事に全力を出してきましたが、やっていることのレベルやクオリティは一切変わっていないと断言できます。宮崎にいても、仕事は東京と同じくらい楽しいし、やりがいもある。変わったといえば、プライベートの時間の使い方でしょうか」特に増えたのは、家族との時間だ。奥様と二人暮らし生活の土屋さんは、東京時代には平日は通勤時間を大幅に取られるため家族と過ごせるのは週末の少しの時間だけ。

それが今では、朝には「おはよう」と挨拶を交わし、朝食をとり、夕食を作ったり、家事をしたり……何気ない会話が豊かな時間を生んでいたことに、改めて気付かされた。加えて、地域との距離が近くなったともいう。

「妻も『東京にいた頃は地域の政治になかなか関心が持てなかったけれど、今は地域で決めたことが自分たちの生活に直結していると感じる』と話していました。それくらい、今は地域の中で暮らしているという実感がある。それが引いては、等身大の自分で暮らせている感覚につながっているのだと思います」

 

やりたいことをやればいい若者の選択を肯定できる街に

2015年から現在に至るまで、宮崎大学地域資源創成学部の講師としてマーケティングを専門に教壇に立つ土屋さん。新型コロナウイルスの感染拡大を受け、学生たちとはオンラインでコミュニケーションを取る機会が一気に増えたが、若者にかける言葉の温度は決して変わることはない。

ところで、それまでビジネスの世界で生きてきた土屋さんが、なぜ教育の現場に身を投じる選択をしたのか。そのきっかけは、前職時代に抱いた、とある違和感にあった。

「宮崎に帰ってきて感じたのは、『なんて魅力的な生き方をする大人がたくさんいる場所なんだ!』ということでした。それはエリアを問わず、中心市街地で新しい事業に取り組む人もいれば、中山間地域で自分たちの好きなように建物を改築し素敵なカフェを開いている人もいる。みんな自分の生き方をちゃんとデザインしているんです。

しかし、前職時代に採用面接で数百人の学生たちと面談をする中、宮崎の学生から『この人を採用したい』と思える人はほんのひと握りだった。こんなに素晴らしい大人たちが目の前にいるのに、なぜそうした彼らから自分の生き方を考えるヒントを得られないのか―そう考えた時、僕が次に行くべき場所は大学だと思ったんです」

ただし、土屋さんにとって「教育」というワードはあまりに重いという。「僕は決して教育者として彼らを導きたいと思って大学にやってきたわけではありません。僕がやりたいのは、あくまで地域の大人と学生が関わる機会を増やし、学生たちの自己肯定感を高められるような経験と失敗をさせてあげることです。失敗しないビジネスはないように、若者にも失敗を前提に、どんどん自分たちのやりたいことに挑戦してほしい。

若者にとっては、失敗こそ学びなのです。そして大人たちがもっと気軽にそうした若者たちをサポートできる空気をつくることができれば、まだまだ社会は変わることができるし、宮崎から変えていくこともできると思っています」

高校時代に「宮崎にはチャンスがない」と東京に飛び出した土屋さんが、今改めて故郷で自らが培ってきた知見や経験を地域に還元しようとしている。それは、土屋さん自身が宮崎という土地が等身大で生きることができる場所であり、自身の成長が地域の成長につながり、自分の豊かさが地域の豊かさにつながっているという構造を直感的に感じることができているからだ。

「僕が宮崎に戻って素晴らしい生き方をする大人たちとたくさん出会ったように、宮崎は誰もが主人公であれる場所です。なぜなら、宮崎には自分の暮らしをデザインできる『余白』があるから。それは誰もが自由に自分の生き方を描くことができ、かつ他者の自由な生き方を肯定できる余裕があるということです。好きな場所で生きていける時代だからこそ、僕もクリエイティブに生きていきたい。僕が宮崎にこだわる理由は、そこにあるのだと思います」

 

\土屋ゼミ所属 市谷 奈菜さん  コメント/

「土屋先生の講義って、朝ドラみたいだよね」と友人と話したことがあります。身近な事例を多く用いた90分の講義ですが、席に座るとそれはあっという間です。そして講義後はいつも、「早く次回の講義を受けたい」「もっとマーケティングを勉強したい」と思います。というのも、土屋先生のお話は本当に面白いのです。ゲーム開発をしていた頃のエピソードや、昨夜の飲み会での話など、多くの引き出しがあります。先生との会話の節々から感じる宮崎への思いは、1度はここを離れたからこそのものであり、私は新たな角度から宮崎を見つめることができています。

 

\土屋さんの休日の過ごし方から見る、みやざきのオススメスポット/

美郷町渡川地区で林業に従事する山師の方々と一緒に、丸太を切ってウッドボードを製作。美郷町は鹿や猪といったジビエにも力を入れており、この日も大自然の中で美味しいお肉をいただく。自然の恵みに感謝!


アウトドア・キャンプ好きの土屋さんにとって、夏には川遊びが満喫できるのも宮崎の魅力。この日は大勢の仲間と、清流のそばで竹を使って本格的なそうめん流し。忘れられない夏の思い出の1ページに。

地元である都城市の大淀川支流・庄内川にあり、日本の滝百選に選ばれる名瀑の「関之尾滝」。迫力のある「大滝」に加え、滝の上流には不思議な光景の「関之尾甌穴群」を見ることができ、自然のパワーを感じられる。

 

土屋さんのUターン年表

1980年 宮崎県都城市に生まれる。
1998年 多摩大学入学
2001年 株式会社アイレップ入社
2002年 株式会社アイレップの取締役に就任
2006年 株式会社あいけあを起業、代表取締役に就任
2010年 株式会社あいけあを売却し、株式会社インターネットインフィニティー執行役員に就任
2011年 株式会社(面白法人)カヤック入社、事業部長となる
2012年 多摩大学大学院経営情報学研究科博士課程前期修了
2013年 株式会社アラタナ(現、株式会社ZOZO,株式会社ZOZOテクノロジーズ)入社、取締役に就任
2014年 多摩大学大学院経営情報学研究科客員教授に
2015年 国立大学法人宮崎大学地域資源創成学部講師となる
2019年 株式会社カヤックLiving代表取締役に就任(〜2020年)

 

文:田代くるみ(Qurumu) 写真:田村昌士

                   

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