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Update on 2017.03.31

川と共に歩んできた、小瀬鵜飼の継承者

【連載】長良川でつながる人々。− 関市を訪ねて −

長良川は日本三大清流の一つと呼ばれていて、余所から来た人にとって、その川の豊かさは一目瞭然だ。

そんな長良川の流域には、古くから多くの人々が暮らし、様々な営みが生まれてきた。その中には、岐阜県を誇る伝統文化も多く存在し、形を変えながらも現代に受け継がれている。

今でこそ、関市・美濃市・郡上市という3市に分かれているが、この一帯は美濃国みののくにと呼ばれ、長良川を介して、まちとまち、人と人が行き交いながら、共に歩んできた場所なのだと感じさせられる。改めて、川を通して地域を見てみるのは面白いと思った。

今回は、そんな歴史や伝統文化の中でも、普段は触れることの少ない“鵜飼”うかいの営みと暮らしを伺いながら、長良川と暮らすことについて探ってみた。



1000年以上受け継がれてきた、鵜匠という仕事


“鵜飼”を実際に見たことがある人は、一体どれくらいいるのだろうか。
なんとなく日本の伝統的な風景として、テレビのドキュメンタリー番組で見たり聞いたりしたことがあるように思うが、鵜飼がどんなものなのか、知る人はそう多くはないだろう。

そんな鵜飼の技法を代々受け継ぎ、鵜匠として関市に暮らしてきた足立陽一郎さんが営む旅館『鵜の家 足立』に着いたのは、日が沈みかけた時間だった。長良川沿いに佇むその場所は、鵜飼のオフシーズンということもあり人が少なく、静かに流れる川とともにゆっくりとした空気が漂っていた。


足立さんは、小瀬鵜飼を継承する足立家18代目の鵜匠で、正式職名を『宮内庁式部職鵜匠』くないちょうしきぶしょくうしょうという。
どこか厳格な方を想像していたのだが、お会いしてみると、とても気さくで物腰の柔らかい方だった。

「鵜匠の暮らしもなかなか苦しいものがあってね。元々は漁として成り立っていたわけですけど、今は観光でしょう。当時は、鮎が一匹何千円とかで売られとって、関の長者番付けで上から何番目っていうくらい儲かっとったらしいですね」

漁としての鵜飼が行われていた頃は、流域に住む人々が鵜飼の船が来るのを待って、網で魚を取っていたそう。それだけ土地に根ざした職業だったようだ。

「鵜飼が漁として成り立っていたのは、昭和30〜40年くらいまで。戦後の高度経済成長で、一時、川がものすごく汚くなって、どえらい数の鮎が死んだりしたんですよ。それと、餌飼えがいと言って、昔は冬場も鵜を川に連れていって、小魚を食わせて夏に向けてのトレーニングをさせていたんですが、一般の人も船を持つようになると、漁ができる川の範囲も狭くなってしまって。そんな経緯から、だんだん漁としては成り立たなくなって、今のような観光としての鵜飼になったんです」


昔は、鮎がたくさん取れたこともあり、式部職ではない人も鵜飼をやっていたそうだが、現在は新規参入が一切できない。

「今は基本的に世襲制だから、新しくやりたい人がいても、鵜匠を継げるのはその家の人間で男性っていうことに決まっとる。だから、減ることはあっても増えることはないんですよ」

長良川流域では、岐阜市で行われている『長良川鵜飼』と、関市の『小瀬鵜飼』の二つに分かれており、現在は、岐阜市が6軒、関市が3軒の合計9軒のみが残っている。

「鵜飼の技法は基本的に同じですよ。関市は人工的な光が少ないし周りが山に囲まれてるから、昔ながらの質素な様子というか、趣のある鵜飼を見てもらえると思います。長良川鵜飼は、小瀬鵜飼に比べて、だいぶ観光要素も強くなっているみたいだけど、そもそも鵜飼って船遊びとしての要素もあったもんで、どっちが良い悪いというよりは好みかもしれんけど。まあ、実際に見てもらわんとなんとも言えんですね」

全国でも宮内庁式部職鵜匠の肩書きを与えられているのは長良川流域のみで、そういった継承の技術が認められて、2015年には日本で初めて『長良川の鵜飼漁の技術』が国の重要無形民俗文化財に指定された。それも影響してなのか、観光客は年々増えているようだ。


とは言え、観光としての鵜飼だけでは暮らしていけない部分もあり、それぞれ他の仕事と両立しながら鵜匠を続けている。

足立さんは、鵜飼の仕事の他に明治の頃から代々続く宿『鵜の家 足立』を営んでいる。宿泊者は、足立さんが鵜の世話をするところを間近で体感でき、運がよければ市場に出回ることはない鵜飼でとれた鮎を食べさせてもらうこともできるようだ。

それにしても、鵜匠としては異例の27歳という若さで鵜匠になった足立さん。家督を継ぐことへの抵抗やプレッシャーはなかったのだろうか。

「上の二人が姉妹で女だから、小さい時からなんとなく意識はしとったんですよ。中学・高校の時から船頭やったり、親父の代わりでたまに鵜匠もやったりしとって。親父が体調崩してたのもあって、20代前半からは代わりに引き継いで。そのままの流れでここまで来ましたね」

足立さんは若くして鵜匠になったが、一般的には高齢になるまで世代交代されないことが多いようだ。


「鵜匠って独特な職業でしょう。だから、ある種のステータスみたいなところがあって。結局は職人なので、それを糧で生きているというか。なかなか鵜匠のポジションは譲りたくないんでしょうね(笑)
だいたいは息子が船頭やっとって、後ろで見ながら技術的なところも自分で学んでいくというか。僕も1シーズンに何十回って鵜を逃しちゃったり、たくさん失敗はしましたよ。もちろんその度に、探しに行って捕まえるんですけど」

じっくりと鵜匠という職業について話を聞いていると、現代の仕事では感じにくい誇りのようなものが伝わってきた。




自然と密接に関わりながら、鵜を操る


ところで、鵜匠が操る鵜はどのような鵜なのか。
やはり、宮内庁式部職という役職にふさわしい、古くからの血統を継ぐような鵜が選ばれるのだろうか。

「普通の鵜ですよ。みんな野生の海鵜。それを訓練して一人前にしていく。今は全部で21羽を管理してるけど、漁に出る時は8〜10羽くらいかな。その日の鵜のコンディションを見て選ぶんだけど、ほとんどレギュラーみたいなのは決まっとるね」

繁殖させた鵜よりも野生の鵜の方がたくましく長く活躍してくれる。また、より大きい鵜の方が多く鮎を取ることができるので、川鵜よりも海鵜、メスよりもオスが一般的だ。毎年、野生の鵜を捕まえてもらい、定期的に入れ替えているという。

まだ若い鵜は羽毛が茶色い。環境に慣らす為にも毎日のコミュニケーションは欠かせないという

「フォーメーションもありますよ。こいつはそこそことるから、今日は4番みたいな。あと、若いのばっかりだと経験がないから安定しないとかね。

この前はたくさん獲ったのに、どうして今日はとらないんだって。そういう時は、だいたい顔見ればわかるんですよ。こいつ反抗的な目しとるなって。だから、基本的に2羽ずつペアで世話をしたり、普段からできるだけ触ったりして、荒びんようにするんです」

話をしている最中も、足立さんは一匹一匹の鵜に触りながらコミュニケーションをとっていた。その姿は、まるで監督が選手たちを気遣っているように見えてきて、なんだか人間臭さを感じた。

「でも、鵜が訓練されて、庭とかにいても、みんな足立さんの言うこと聞くじゃないですか」(河合さん)
「聞いてないよ(笑)あれは、外に出られるから、やったー!って感じなんでしょう」(足立さん)
「はたから見てると、あんなに大きい鳥が足立さんのいうこと聞いてて、すげーなーって思うんですけどね」(河合さん)

足立さんと関市役所の河合さんのやりとりは、鵜匠としての足立さんというより暮らしの日常を垣間見ているようで、自然と場が和んでいった。


そもそも、関市に暮らす人にとって小瀬鵜飼とはどのような存在なのだろう。

「関市に鵜飼があるのは知っとるけど、わざわざ船に乗って鵜飼を見たことがある人は、ほとんどいないんじゃないかな。でも、関の人は長良川鵜飼より小瀬鵜飼のほうがいいってプライドを持ってる人は多くて(笑)そうやって誇りに思ってもらえるのは、嬉しいですよね」

6〜7年前からは、地元の関市内にある小学校4〜5年生を対象に、船に乗って鵜飼を見せ、地域の宿に泊まるような体験も始めているそう。
「小学生に見せるというのは、鵜飼が関市の伝統として続いてきていて、守っていきたいという意識を持たせるという思いもあるんです」と、関市役所の河合さんは話す。

足立さんにも高校生の息子さんがいて、今のところは鵜匠を継ぐつもりでいるという。

「中学一年の時から船頭やって、去年も半分くらい乗ったかな。だって、そのつもりで俺は育てて来たからね。ただ、鵜匠の暮らしも楽じゃないし、自分なりの自信になるようにと思って、小さい時からやらせてはいたんですけど。まあ最終的には本人が決めることですからね」

10年後には、足立さんの息子さんが鵜匠として活躍している姿を見ることができるかもしれない。


また、鵜飼にとってもう一つ大事な役割が、船頭の存在だ。
船頭が船を操って、鵜匠が鵜を操る。そうして初めて鵜飼は成立している。

船頭については、やりたい人が手を挙げたらなれるようだが、その成り手も年々少なくなってきているという。

「関市では、鵜匠を乗せる船頭とお客さんを乗せる船頭が、合わせて20人いるかどうかくらいですね。もちろん、代々船頭をしてくれている家系もいますよ。ただ、船頭だけでは仕事にならんので、普段は別に仕事をしながらやることになるもんで。なかなか理解のある会社も少ないし、実際の仕事に迷惑もかけれないから、なかなか厳しい現状ですね」

最近、注目されている”働き方”がもっと変わっていけば、船頭をやりたい人も増え、一般の人が鵜飼に関われる機会も増えていくのかもしれないと感じた。



鵜匠をとりまく環境の移り変わり


長良川で鵜匠として生きる足立さんは、誰よりも間近で川の変化を感じている。

「よその人が見たら、今の長良川も十分綺麗だと思うけどね。でも、昔は10m下とかまで透明だったし魚も見えたけど、今は見えんもん。鮎の数も年々減ってるし、大きさも小さくなってきとる。

川の状態が変わって、大きい石が減って砂利が増えたんです。鮎は石についた苔を食べるから、餌を十分に食べられない上に、お腹に砂利がたまるようになっていて。『うるか』と言って、鮎の内臓の塩漬けにした料理が昔からあるんだけど、川の状態が良くないと作れないんですよ。まあ、川の状態が変わっている部分で言うと、何が直接的な原因かはわからないですけどね」


川の環境は確かに変化している。しかし、それでも鮎は毎年遡上してくるし、鮎がいなくならない限りは鵜飼はできるのだろう。もちろん年によって、たくさんとれる時期やそうでない時期があるのだが、小瀬鵜飼ではその気まぐれさも含めて、そこに漂う空気感や昔から続く漁法を楽しめるのが観光の魅力のようだ。

「観光としての鵜飼なんで、やっぱりお客さんに来てもらえないと意味がなくて。最近は、外国のお客さんも増えてきてますよ。でも、外国の人ばっかりじゃなくて、もっと日本の方にも見に来て欲しいです。風景としての鵜飼だけじゃなくて、山の木々や川の環境など大きな視点で鵜飼のことを見てもらえれば、この先も続けていけると思うんですよ」

足立さんは、見てくれだけを良くするのではなく、歴史背景や伝統的な技術も含めて、鵜飼の面白さを伝えていきたいと話す。

「でも、このあいだ嬉しいことがあってね。大学生とか成人したばかりの若い人が、鵜を見せて欲しいってわざわざ連絡してきて、見学に来たんですよ。僕にとってもそういう話は刺激になるし、すごいありがたいことですよね」


観光としての鵜飼は、様々な人によって支えられている。それは、余所からくる観光客もそうだし、地元の人も一緒なのだろう。
ただ、どこの観光地でも言えることだが、地元の人たちにとっては目新しさを感じにくく、なかなか知りたいと思う機会は少ないのだと思う。

「外の人って、”鵜飼とか刀とか関市にある昔からの文化がいい”ってみんな言ってくれるんですよ。ただ、住んでいる僕らの感覚では分からないっていうのが正直なところで。何でもそうやけど、足元の魅力が一番気づきにくいんやろうね。
でも、ものすごいポテンシャルはあるところやなって誇りに思う部分もあるし。もっと、余所から来た人が新しい風を起こしてくれたらいいなって思います」


余所の人が鵜飼に注目してくれることで、結果として地元の人にも関心をもってもらえるかもしれない。そうすれば、鵜匠の活動や船頭に興味を持つ人も増えていくだろう。
そういった意味で、余所の人が地域へ及ぼす影響力は大きいのかもしれない。

「たくさんの若い人が岐阜に来て、川とか森の仕事に関わってくれたら、もっと素晴らしい長良川になると思うから、期待していますね。」

そう語る足立さんは、鵜匠としてはもちろん、関市に暮らす人としてもこの地域の未来を想っているようだった。




伝統を継承する鵜匠の姿


明朝、鵜を見せてもらうために、改めて足立さんの元を訪れた。
鵜を操る足立さんは、昨晩とは少し違う、どこか“鵜匠”としての精悍な雰囲気が漂っていた。

今回の取材で何より一番に感じたことは、伝統を受け継ぐ足立さんのかっこよさだった。それは単なる鵜匠という立場だけでなく、足立さんらしい人間臭さも含めて、その魅力を体感できたからであろう。

しかし、もっと本質的に鵜匠を深く知るためには、足立さんが言うように、鵜飼のシーズンに足を運んで、実際の鵜飼を体験してみることから始まると思う。


取材後に見る長良川は、変わらず綺麗で清流と呼ぶにふさわしい姿をしているように感じた。ただ、足立さんの話を聞いた後では、漠然と眺めていた川に目を凝らしてみている自分がいることに気がついた。まずは、“知ること”が大切なのだろう。

鵜匠は川と繋がり、川は山などその周りの環境とつながる。そしてその環境に影響を与えるのはその周辺に暮らす人々だ。長良川と暮らす人は、川の環境だけではなく伝統を守るという大切な役割も担っているということでもある。一見関係していないようなことも、長良川を軸に繋がり、お互いに影響しあっている。

『長良川と暮らす』とは、この循環する仕組みの大切な一役を担うということなのかもしれない。


(文・写真:矢野航)

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