「故郷が寂れていく」
そう言って寂しそうに話す地元の爺ちゃん。居酒屋で愚痴をこぼす人。
過疎に悩む田舎町の人物像は、外から見ている私達の「先入観」が創り出した幻想かもしれない。地元に住む人でさえも、この「過疎地域の常識」に思考が固定されている可能性すらある。過疎地域のプロパガンダになっている「何もない地元」という言葉は、少しずつ変わり始めている。
変わり始めた若者の地元観
昨年、秋田での暮らしを伝える「アキタライフプロジェクト」で湯沢市、鹿角市、五城目町を中心に秋田の暮らしを巡った。
▷温泉を活かした暮らしをつくる。秋の宮温泉郷での挑戦。
▷「食」が「職」になる。移住希望者が絶えない鹿角市のイマを探る
▷地域の空白がナリワイの種。五城目町で創る働き方
実はここに紹介できなかったが、この旅の道中「意志を持って地元に帰ってきた若者」に出会っている。人口減少、高齢化が日本一進んでいると言われている秋田。その南の玄関口と呼ばれている湯沢市で出会った「未来の経営者」は20代らしい感覚で「アキタライフ」を語ってくれた。
横手市のcamoshibaにて。沼倉さんの先輩が経営している。
沼倉佑亮さんは湯沢市出身の25歳。
大学を卒業して大手繊維メーカーに勤めたが「いつかは地元に帰りたい」の「いつか」を「今」に塗りかえて2016年4月にUターンしてきた。
「高校生の頃、ドラマか何かで見た一流商社で働いて、世界を股にかけて働く人に強い憧れを持っていました。そうやって働く為に、とにかく東京に出たいと思っていましたし、経営者である父にも東京に行くように言われていました。高校の同級生も同じように地元を出るということを当然に考えていたと思います。」
地方の中・高校生は「地元は好きだけど、都会に出たい」という気持ちが特に強い。
湯沢市に限らず、どの市町にも「どうしても地元から離れたい若者」はいる。
沼倉さんも高校を卒業すると共に上京。都心の人の数に疲れて田舎に移住した人も、5,6年も住めば、夜中も眩しい街の明かりだって浴びたくなるのだ。秋田とは違う人、モノ、情報の量を求めて地元を離れた。そうして広がりきった世界から自分が進む道を決めるのは難しいことだったろうが、数ある選択肢の中で「今、秋田に帰ろう」と決めたのは何故だったのか。
自分には何もない。だからこそ見つめ直した地元に戻る意味
大学生となった沼倉さんは「いつか家業を継ぐ」「いつか地元の湯沢市に戻る」という意識を持つ中で「どんな経験を積み重ねていこうか」と考えるようになった。バイトやサークル、そういった大学生としての日常だけでは自分の欲しいものは得られないのではないか。そう考えた沼倉さんは、家業の代理店を東京で立ち上げて大学生ながら「仕事」に向き合い始める。
「私の父が立ち上げたシルクスクリーンの事業は、新聞記事に載っていた広告がきっかけだったんです。面白そうだなと研修を受けて、機械1台から地域をお客様にしたプリントショップとしてのスタートでした。当時はこのあたりにプリント屋がなかったみたいで、少しずつ噂が広がって地域の繋がりで仕事が増えていきました。」
有限会社ぬまくらの工場内
「同じように東京で仕事を始めて、大学生と経営者の二足のワラジを履くことになり、見えてくること、考えること、話すことも変わってきました。地元以外の地域にも飛び込んでいく中で『自分の故郷』と重ね合わせて考える機会も増えて、その上で自分は何を残していきたいかを考えるようになったんです。もっと色んなことを学んで、経験をしてから地元に戻ろうと。」
沼倉さんは在学中に家業のビジネスをより深く学ぶために専門学校へ入学。ダブルスクールをこなしながら、業界の仕組みを学ぶために卒業後は大手繊維メーカーへ就職します。
「いつか地元に帰って家業を継ごうという思いは変わりませんでした。ただ、具体的に戻る時期までは意識していなかったように思います。」
経験を積んで、成長して、持てるものを持ってから地元に帰ろう。そうして時間が過ぎていくと、地元に帰る機会を逸してしまう人も少なくない。
「就職して、経験を積んで、『いつか湯沢市に、秋田に帰ろう』と思っていました。それが途中から『どうせ帰るなら、早い方が良い』という考え方に変わったんです。何度か仕事で実家に帰るうちに気づいたんです。地元とはいっても、地元での人の繋がりは全然なかったですし、経営者として地域に関わるということは、そこで生活することとは全く違うことだなと。地元や秋田での経験を早い段階から積んで、微調整しながら進んでいくことが実は秋田で家業を大きくしていく近道だったんです。」
地元に戻って見えた「人の広がり」
沼倉さんがUターンしたのは2016年4月。地元に戻ってから着手したのは第二次創業となる「ICHINOSAI」という企画提案型のシルクスクリーン事業でした。
有限会社ぬまくらの工場内
「地方の工場というのは『待ち』の姿勢がとても多くて、私達も下請け工場として実直にクライアントさんの要望に応えてきました。お客様の要望に応えていくだけでよかった時代は確かにありましたし、技術力も上がっていきましたが、これからの時代はそうもいかなくなってくるなという危機感があったんです。
『印刷・プリント屋だからできる企画、提案の仕方』があるのではないかと思い、新しく企画室を立ち上げたんです。『こんなプリントの仕方が出来るんです、やってみませんか』と言えるような体制をつくって、クリエイションの現場とものづくりの現場を近づけていきたいと思っています。」
地元の湯沢市に新しい風を吹き込んだ沼倉さん。企画室の立ち上げと共に秋田県を走り回っていく中で、秋田特有の生態系に気づきます。
「秋田県に戻ってきて驚いたのは人との繋がりやすさ。人から人へと紹介を辿っていくと、どんな人とでも繋がることが出来るんです。湯沢市の中はもちろん、秋田市や県北の企業や人とも交流が始まって、「オール秋田」のような一体感を感じました。」
アキタライフプロジェクトの中でも言われていた「秋田県全体から発せられる一体感」を沼倉さんも感じていました。
ICHINOSAIではデザインとプリントの両側面から提案している
「上京する前、地元に戻る前は、こんなにも人の広がりが溢れているということに気づいていませんでした。世の中に蔓延している『地元には何もない』というイメージはなんだったのだろうと思います。常に新しいことに挑戦し続ける経営者、地元の湯沢市から世界を見据える企業、視点が変わると見えるものも変わったんです。」
地元と自分の心地の良い距離感
これから、秋田を舞台にどんなライフスタイルを送りたいのか。そして、秋田暮らしの良いところはどこなのかを聞いて返ってきた答えは意外なものだった。
「確かに地元に戻ってきました。家の近くの露天風呂(湯沢市は有名な温泉地)に入って星空を眺めてホッと一息つく時、心と身体がリセットされるような心地良さがあります。ここが地元なんだなと感慨深くなることもあります。ただ、ここに留まり続けようとは思っていません。そして、湯沢市から出ようと思っているわけでもないんです。」
沼倉さんは、湯沢市の本社と東京の営業所を行き来しながら仕事をしている。
「湯沢市にいながら、秋田市、首都圏、世界を行き来して仕事をする。時期によって拠点となる場所が変わる。地元や一つの地域にこだわらない暮らし方があってもいいし、働き方があってもいいのかなと思います。」
「地元が秋田だと言っても、帰ってくる時は0からのスタートだと思います。ただ、目的と意志を持ってくれば周りの人が助けてくれますし、必要な人を繋げてくれる。アキタライフカフェでゲストとして登壇されていた柴田さんを訪ねてもいい。ここに来てもらってもいいです。」
湯沢市、鹿角市、五城目町というような市町村の括りではなく「秋田に暮らす」という視点、「移住する」のではなく「秋田を拠点の一つにする」という考え方、そうやって柔軟に自分と秋田の距離感を見つめ直してみると、アキタライフはもっと身近になるのではないだろうか。今の若者世代が考える「地元との距離感」の一端が見えたような気がした。
(写真・文 大塚 眞)
☆TURNS Vol.27 p.122に、「ICHINOSAI」(有限会社ぬまくら)の求人情報も掲載中です!
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